12月29日 「最も深いところで」 マルコによる福音書
7章1-13節「昔の人の言い伝え」
1
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2
そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わないで手で食事をする者がいるのを見た。3
--ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4
また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―-−5
そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6
イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠くはなれている。7
人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』8
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」9
更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。10
モーセは、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。11
それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、12
その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。13
こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」先週、喜びのうちに会堂に戻りうれしいクリスマス礼拝をむかえた。
2002年は試練とともに新たな希望を主に示された年であり、
礼拝、み言葉をかこむ神の民の喜びが主によって示された。
今朝の箇所では主に対して論争を挑む場面が示される。
パリサイ人、律法学者は、神の戒めを守ることを誇りとし、自分基準の中にいる。
全てがみ言葉によって支配されている姿こそがキリスト者である。
クリスマスにイエス・キリストは愛するため、十字架にかかるために生まれられた。
主に対して何ができるか、私達には何も出来ていない。
復活の命に預かった先達たちとともに伝道の道を歩むことこそが必要です。
主イエス・キリストの十字架の意味、クリスマスの意味を深く知ることでみ言葉自身が輝くのです。
この世界は神のもの、まことの神の愛と喜びが教会の歩みとなり、伝道の力にかえられる。
2003年も主に従って歩む者となりたい。
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