12月15日 「あなたと共に今ここにいる」 マルコによる福音書
6章45-56節「湖の上を歩く」
45
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群集を解散させられた。46
群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。47
夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。48
ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49
弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。50
皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。51
イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。52
パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである。「ゲネサレトで病人をいやす」
53
、 こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いて舟をつないだ。54
一行が舟から上がると、すぐに人々はイエスと知って、55
その地方をくまなく走り回り、どこでもイエスがおられると聞けば、そこへ病人を床に乗せて運び始めた。56
村でも町でも里でも、イエスが入って行かれると、病人を広場に置き、せめてその服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れたものは皆いやされた。
「我が神・我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか」この十字架の上での最後の主の祈りをある神学者は、「常にそのように祈られた」と説く。それは、「主が、私達の痛み苦しみを日々担われ、一つとなってくださった故だ」と言う。
今朝の箇所で主は、山に退き祈る為に弟子達と別れられた。主イエスにとっての祈りは、神の国を宣べ伝える源であった。一方、弟子達は奇跡を通じて主の教えを受けることが出来なかった。それは心が鈍くなっていたからである。弟子達は、船を出しベトサイダへ向かっていたが、予想を遥かに超えた状況に襲われ、彼らの中にあるのは、恐怖と不安であった。いつのまにか神が見えなくなってしまった。しかし、一つの言葉を見いだす時、変えられる。それは、主イエスが「強いて舟に乗せられた」と言う言葉である。主は、全てを知り、「強いて」共に導き送り出されるお方である。ここに信仰者の姿と平安の源がある。
しかし、弟子達は心が鈍くなり、その種イエスを幽霊だと思うことしか出来なかった。神なき心は死んだ心となる。しかし、教会は神の御言葉を持つ故に生きた心を持ち輝き続ける。何故ならば、今自分の隣で生きる主と一つとなる共同体だからである。自分と言う船の中に主を迎える時、一瞬にして嵐は静まると聖書は約束する。
私達は弱い。しかし主イエス・キリストは、私達に「しっかりするのだ。私である。恐れる事はない」と今語りかけて下さる。「あなたと共に今ここにいる」この主イエスを知る時、私達は必ず前へ進む事が約束さえているのである。主を見上げ信じ、共にそれぞれの嵐の中でも、生きた心を輝かせ、感謝と喜びの内に生かされたい。
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