2003年7月20日  ぶどうの木  第3号

『キリストに生きる』 米 田 芳 生 牧師

私達は、「信じる」と言う言葉を知り、また用います。病気が癒される或いは自分の望みが叶うように「信じる」など、様々な用い方をします。そして同じ言葉を用いて「神を信じる」と告白します。日本では、八百万の神と言うように様々なものを神とし、信じる対象としてしまいます。そのような国にあって真の主を「信じ」歩めるのは素晴らしいことであると思うのです。

 ガラテヤの信徒への手紙二章には、「イエス・キリストへの信仰」と言う言葉が記されます。そしてその信仰によってだけ人は救われると約束します。パウロは、ガラテヤの教会の中で人間の行いによって救いが得られると考える人を見、憤りを感じそして何よりもそのような姿に悲しみを感じずにはおれませんでした。

私達人間は、普段の生活の中で良い行いを知り、志します。素晴らしい事です。しかし、神の救いと言うものはまた別の次元なのです。私達がイエス・キリストを信じると言う事は、一生懸命何かをする或いは、自分が何か立派な行いをする所に根拠はないのです。ただイエス・キリストを信じること、それこそが、聖書が断固として宣べ伝えるものであり、だからこそ神のよき恵みの香りである福音は「喜びのおとずれ」なのです。

もし、私達が、救われる為にあれこれ条件を満たそうと思うならば、どんなに人から賞賛される素晴らしい条件を満たしたところで、私達は真の救いは得ることは出来ないのです。なぜならば、イエス・キリストを信じる事自体が神の導きなしではありえないのです。また、神ご自身の救いの御計画は、私達人間には捉えきれない広く深いものだからなのです。唯一完全な神の御計画こそが「私達が信仰によって救われる」と言う道であり、完全な神の救いはそこにしかないのです。

では、キリストを信じるとは、一体何なのでしょうか?それはただ単にイエス・キリストと言うお方を私達の信仰の対象として歩む事ではなく、イエス・キリストに一つにされるということなのです。イエス・キリストと一つになると言うのは、自分が神になると言うのではなく、一つになる事すなわち、神の与えて下さる救いに与り、真の人として生きる事なのです。その時、真の神に作られた心を取り戻し、自分の歩みに神がいつも正しき道を示し待っていて下さった事を知らされ、何よりも愛されている自分を豊かに知らされるのです。

イエス・キリストは、十字架に架かり陰府にくだり三日の後、死を打ち破って復活されたお方です。その主と一つになる事は、死をも打ち破ると言う、不可能を可能とされた方と一つとされることでもあります。その意味からも、単なる信じる対象であり、私達が完全に把握できるような八百万の神を知るのではなく、唯一の主に一つとされるということは決して人間の業ではありえないのです。

キリスト者として歩むパウロは、ガラテヤ書二章二〇節で、「わたしが今、肉において生きているのは」と語ります。この「肉において生きている」と言う事は、真の人間として生きると言う事なのです。キリストによって救われた時に、肉を捨てた、すなわち世捨て人になったり、超越した人物になるのではありません。そうではなく、真に神によって命の息を吹き込まれた人として生きると言う事なのです。人として生きるならば、いつも喜びだけではなく、悲しみも痛みも感じ、時には涙に暮れることさえある。そのような所に我々は生きている。これらは、私達にとっては余り恵みに満ち溢れた姿とは写らないものです。

しかし、その真の人として生きる事が赦されるこの時にパウロはこのように述べるのです。「私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」と。自分の生きている事も死ぬ事も喜びも悲しみも涙さえもキリストと深く結びついていると断言するのです。そしてそこにこそ慰めと勇気を見出したのです。

キリストのものであり続ける。キリストに生きるそれが全てなのです。それこそ本当の意味で真の人として豊かに歩めるのです。

主イエス・キリストをただの対象として終えていないでしょうか。イエス・キリストを信じると言うのは、キリストと共に十字架につけられ、キリストと共によみがえらされて、真の人として生きる事を確信できるのです。もはや古い私が生きるのではなく、キリストが私の内にあって生きていると言うのが「イエス・キリストを信じる信仰」と聖書は強く語りかけます。  

逆に古い自分のままに生きるなら「神の恵み」を無駄にする事になるという強い警告をも発します。神以外に救いを求め、自分が救いを可能にできる、すなわち自分が神と変わってしまう大きな罪の姿であります。

主を信じる事が赦される事によって、私達の住む世は主が既に勝利された世であることを確信できるのです。だからこそ、新しい命に生き、いや私達に与えられた真の命をもう一度私達が受け取り直す事ができ、強く生きる事が赦されるのです。例え苦しみ困難が私達を包もうとも、それらは全て主によって与えられた主の御手にある業であると知り、逃げずに歩む事ができるのです。それを可能にする事はただ一つ「キリストに生きる」ことだけです。ここに立ち歩む者は、キリストと一つとされた故に喜びが溢れ、神による真の自由の中に強く歩めるのです。感謝し、ただ信仰の炎を輝かせてそれぞれに主によって与えられた使命の場所に歩みましょう。そしてキリストと一つとされた恵みを私達が全身で証する事が赦される、その歩みを心より感謝いたしましょう。

     東方のぞみ姉ご婚約!

去る六月二九日(日)に、当教会の教会員・東方のぞみ姉と日本キリスト教団鎌倉雪ノ下教会教会員・柳沢真兄の婚約式が富士見丘教会礼拝堂で執り行われました。

米田牧師、司式のもと、多数の立会者を証人として九月の結婚式に向けての準備を行うことになりました。なお、結婚式は九月二七日(土)に鎌倉雪ノ下教会で執り行われます。

 


 

「安息日を心に留め」     東方敬信牧師

安息日というのは、へブル語ではサバットといいます。それは、中断、中止と言うことです。人間の働き、人間の技を誇ることに限界を設けて、中止して、上を見上げて、神の恵みに心を留める日です。聖書によりますと、神は六日間天地創造の業をなさって、すべて終えて七日目に安息を取り「はなはだ良かった」と造られたものをすべて肯定して、喜んで眺められたのです。だから、わたしたちも、安息日にすべての業を中止して、礼拝に集まり、神の祝福を覚えるのです。

一九二四年パリのオリンピックゲームで四百メートルの金メダルを獲得したエリック・リデル選手は、日曜日に開かれた百メートルを安息日であるので、礼拝のために棄権したのですが、七月十一日水曜に開催された四百メートルに出場して、自分の信仰を守って、さらに二二歳の青年として精一杯の力を出し切ったのです。これは『炎のランナー』という映画になっています。

日本でも明治九年から週七日制にして日曜日を休むようにしたのです。明治十二年に岡山県で教会が設立されると、次の日曜日から、その日を休みにする工場が現れたと報告されています。宣教師ケリーの報告を引用すると、「この町の大きな陶器工場の主人が、工員のための福祉になにか役立たんと願っていた。工員たちのなかに十二、三歳の見習い工たちも含まれていた。彼は小さな学校を設けて、これらの少年たちに学ぶ機会を与えた。主人は、日曜を休日とすることは工員たちの生活にとって有益であると聞き、それを試みることに決した。彼は私共のところにきたり、工場内の適当な場所で日曜日に宗教的な集まりをなすために助力を得ることができるかどうかたずねた。我々はもちろん喜んで賛成し、彼の要請に応じた」と。こういう報告があり、工場の大きな門の傍に『本工場は本日休日なり』と掲示するのをみるのは愉快であった、と言って、社会的にも休養を取るのが有益であるだけでなく、労働を止めて、人間性の成長に時間を費やしたのです。

今わたしたちの生活している産業社会では、安息日はただの休息の日ですが、それは新しい労働力をたくわえる休日で、皮肉にいえば、労働力の再生産の意味しかありません。そこには、働き過ぎワーカホリックと休日恐怖症の問題がひそんでいます。つまり、産業社会では、業績つまり働く世界しか意味感をもっていないので、休日にブラブラするのであります。それは、レジャーが本当の意味をもっていない証拠であります。

安息日は、主イエスの復活を記念する日ですが、意味あるレジャーのおくりかたです。神が作られた存在そのものを肯定し、喜ぶのが礼拝です。喜びが最高の遊びであるとすれば、礼拝は最高の遊びであります。会社に仕えている六日間とまったくちがった時間の感覚が礼拝です。それが安息日です。礼拝は、日曜日の午前中、祈ったり賛美歌をうたったりするのですが、そこで確認されるのは自分の存在がどんなにかけがいのない価値あるものであるかということを経験するのです。アガペーの愛によって自分を受容する時であります。それは、わたしたちの罪を十字架で滅ぼし、復活によって新生を与えます。

ルターは、この日曜日のおくりかたとして二つのことを上げています。この安息日は、いっさいの苦労をしている人を休ませなければならない。そしてこの安息日に礼拝をし、神の言葉を聞き、神を賛美し、神にうたいかつ祈る、といいました。

富士見丘の家族紹介

今号よりスタートするこのコーナーでは、富士見丘教会に集うお一人お一人の声を連載して行きます。この教会を一つの家に見立てるならば、集う一人一人は家族のようなものです。その家族の隠れた素顔が窺い知れるコーナーとしてまいりたいと思います。

北本巌(きたもといわお)

一九三〇年六月一〇日生

一九五〇年四月九日受洗 札幌北光教会にて

キリスト教との出会い:

母方の祖父が北海道名寄の組合教会の教会員でしたので、幼い頃から讃美歌などよく聞きました。戦後昭和二三年(一九四八年)頃、高校内で聖書研究会活動が盛んになり、そこに誘われたことがキッカケで高三の時はじめて教会へ行きました。

今までの歩みの中で印象に残っていること:

大学2年の時受洗と同時にCSの教師を命ぜられ、卒業するまで三年間貴重な経験・訓練の場を与えられたことが大きな賜物となっています。

愛唱聖句:

コリントの信徒への手紙一三章:昔祖父がよく読んでいた箇所で今でもその声を思い出します。

愛唱讃美歌:

四九六番:愛唱とは言えませんが、好きで印象深い讃美歌です。

二編一九五番:好きですが、あまり上手には歌えません。

趣味・特技:

特になし。幼い頃から歌うことは大好き。童謡・唱歌 >>コーラス(大学時代)>>長い間ブランク>>最近は老人コーラス

何か一言:

昭和二八年銀行に就職してからの三〇年間は転勤族となり全国を転々としました。富士見丘教会へ転入してからも(昭和三四年)、地方勤務が多く、すっかり放浪癖が身についてしまいました。周囲の者たちから見ても存在感が今一のようで、いつの間にか老境に入りつつある自分を見て、もう少し自分自身の整理をする必要があるように思い、そのためにも少しでも前向きに過ごすことが出来るよう心身の健康を心がけたいと願っているこの頃です。

佐藤紀子(さとうのりこ)

誕生日三月六日

受洗日:求道中

キリスト教との出会い:

青山学院高等部入学後、学校の礼拝・聖歌隊・聖書の授業を通して

富士見丘教会との出会い:

鹿島建設青山会(勤務先の大学同窓会:青学会館で開催し、大学関係者をお招きしております)で、青山学院院長(深町先生)に小田急線沿線でのお勧めの教会ということで、紹介して頂きました。

今までの歩みの中で印象に残っていること:

私の家族はほとんどキリスト教と接点のない家族でしたので、家庭から福音は伝わってきませんでした。学校での礼拝以外で、音楽・文学・映画・ミュージカル等から福音が伝わってきて、心に残っております。

ヘンデル「メサイア」・・・高等部の聖歌隊でほとんど全曲英語で歌いました。歌詞研究の課題があり、このときはじめて聖書全体が愛と救いの神からの福音であることが分かりました。はじめてメサイアの練習の見学に行ったとき、神様への賛美が天から大雨のようにふってくるような曲だ、と感じました。

トルストイ「戦争と平和」・・・大学の授業「文学概論」の夏休みの課題でした。ロシアの貴族社会の中で、本当のキリストの姿・神様の姿を探し続けたトルストイの壮大な信仰告白の本だと思いました。感動のあまり、電車の中で泣きながら本を読んでいたことを思い出します。(電車の中で泣きながら本を読んでいる人って見たことないですよね!?自分でも変だと思いました。)

ユーゴ「レ・ミゼラブル」・・・ミュージカルから、福音を感じました。かなりはまって歌詞付CDと本も揃えました。キリスト教とフランス革命という大きなテーマが感じられました。カトリックの神父様が主人公に大きな影響を与えます。

「ジャンヌ・ダルク」・・・映画で見ました。これもフランスの話ですが、宗教と政治・教会も大きなテーマです。彼女には残酷な最期が待っているのですが、ローマ法王が彼女を何番目かの聖人に指定した、というエンディングでした。

三浦綾子「細川ガラシア婦人」・・・最近改めて読み直したところ、心に響きました。キリスト教が伝道され始めた頃=戦国時代の日本の状況もよく分かり、その中で真理を求めつづけたガラシア婦人の神様へのまっすぐな生き方が胸を打ちました。

富士見丘教会に通いはじめてから、東方先生に英語で聖書を学べる機会があったら、とお話しましたところ、マクニコル先生のバイブルクラスを創設して下さいました。イギリス人の方から、世界規模の見方で聖書を学べる機会を与えられ、とても感謝しております。また「聖書に親しむ会」でのお話は大変力になり、勉強にもなり、刺激にもなり、ますます御言葉の深さ・力に感じ入っている今日この頃です。

愛唱聖句:

先日バイブルクラスの予習をしておりましたら、目に飛びこんできた聖句がありました。

エフェソの信徒への手紙四:四〜六「体は一つ、霊は一つです。それはあなた方が一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのもののうちにおられます。」

同文を英語ではこう書かれています。

There is one body and one Spirit- just as you were called to one hope when you were called- one Lord, one faith, one baptism; one God and Father of all, who is over all and through all and in all.

愛唱讃美歌:

この讃美歌を選んでいる時、自分はすごく青山学院高等部から影響を受けていると思いました。高校生の時に歌った讃美歌は青年向けの曲が多かったです。

第一編:二〇・七九・一九一・三一二・三五二・三六一・四四九・四五二・四九四

第二編:一

たくさん好きな曲がある中で、一〇曲選びました。

趣味特技:

一〇年以上続けていること(又は続けていたもの)

ピアノ  テニス

鹿島建設勤め(どういう訳かいつも会社の中で一番栄えている部署で働 せて頂いています。でもそろそろどうかな・・・とも思っています)

一日中やっていても飽きないこと

料理

月一回、大先生にならっているもの

お菓子

資格:

英検・日商簿記・着付・秘書検定(これが全て二級なのが、残念なのですが・・・)

何か一言:

思い出しますと、どれだけ多くの方から福音を伝えられたか分かりません。富士見丘教会の方々からももちろん大きな福音を伝えていただいており、感謝しております。将来、家族の理解を得て、富士見丘の一員となり、クリスチャンホームを築き、家族・友人たちと富士見丘に繋がるものとして、神様によろこんで頂ける人生を歩めたら、と思っております。

 

牧師の窓   米田芳生

教会に住んでいると色んな出会いがある。その出会いは人だけとは限らない。自然や動物との出会いも豊かに与えられる。最近教会の庭に水をまく度に不思議な出会いを与えられる。それは小さなスズメである。どこからか必ずといってよいほど飛んできて、教会の門に止まって私の水まきを見ている。もちろんスズメに聞いたわけではないので確かではないが、じっと地面を見て止まっているのである。しかし、少し地面に水溜りを作ってやると、直ぐにおりて来て水溜りに入り水浴びを始める。とても小さな体で一生懸命水をかぶって体を潤すのである。その光景を見る度に不思議と何か心がほっとさせられる自分いる。

もちろん八百万の神というようなスズメの中に神様がおられるとは思わない。しかし、スズメを見てほっとする自分にいつもマタイ六章の「空の鳥を見よ」と教えられた主イエスの御言葉が不思議と思い返される。そこには神様がどれほど私達を愛し、そして歩むべき道を示される「まず神の国と神の義を求めなさい」と言う御言葉の宣言が強く輝いている。

日々の生活の中で心騒がせ、御言葉を受けながら「御言葉に立つ生活を歩めているか」と問われる時、なかなか「はい」と胸を張って言えない歩みをつい歩んでしまう。神を讃美する為の口を通して人を傷つけ、神の栄光を表わす為の自分の姿を通して人につまずきを与えてしまう。キリスト者である者がと自分の弱さ小ささを痛感させられる。

しかし、そんなどうしようもない自分も必ず神様は色んな形を通して御言葉を示し神様の力に心の目と立つべき源へと戻して下さる。このような歩みは、主イエスキリストを真に知る事が赦され、源に持つ事が赦されるからこそ御言葉の下に戻され、新たな力のもとスズメを見てほっとさせられるのかもしれない。

主イエスキリストは私達の命のすなわち全ての源である。これはどんな解釈もまた私達人間の限りある力での聞こえの良い説明など必要ない。この源を持つ故に人はこの世が主の勝利された世界であり、色んな出会いを通して御言葉に戻され、その輝きを受け新たな力を得る事を確信できるのである。小さなスズメのように私達もたとえ日々の歩みの中で自分は小さく弱く自分自身ですら自分を愛せなくとも、神は私達を愛される。それだけは永遠に変ることなく輝き、御言葉は力強く語りかける。しっかりと主を上げてきたい。ただ一つの源を持つときに全てに主の恵みが満ち溢れている喜びに触れる事ができるのだから。

今度は、色んな物を落としていくカラスとの出会いに乞うご期待である。

  教会短信

教会全体修養会が八月一〇日()に行われます。今年は教会にて礼拝、愛餐会、講演・討議を一括し修養会として予定しております。多くの方の参加申し込みをお待ちしております。

教会学校夏期学校が七月二三日・二四日に奥多摩福音の家で行われます。皆様のお祈りをお願い申し上げます。

発行所 日本キリスト教団 富士見丘教会

        〒 155―0032 東京都世田谷区代沢 2―32―2

        電話 03―3414―1892

            http://www5b.biglobe.ne.jp/^chfujimi/

        発行人 米田芳生  企画編集 教会報「ぶどうの木」委員


 

BGMは、バッハのカンタータ80番「神はわが堅きとりで」です。

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