85 「神のヒューマニズム」  ルカによる福音書1025-37

善いサマリヤ人

25すると,ある律法の専門家が立ち上がり,イエスを試そうとして言った。「先生,何をしたら,永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

26イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」といわれると、

27彼は答えた。「『心を尽くし,精神を尽くし,力を尽くし,思いを尽くして,あなたの神である主を愛しなさい,また,隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

28イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

29しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では,私の隣人とはだれですか」と言った。

30イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中,追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り,殴りつけ,半殺しにしたまま立ち去った。

31ある祭司がたまたまその道を下って来たが,その人を見ると,道の向う側を通って行った。

32同じように,レビ人もその場所にやって来たが,その人を見ると,道の向う側を通って行った。

33ところが,旅をしていたあるサマリヤ人は,そばに来ると,その人を見て憐れに思い、

34近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ,包帯をして,自分のろばに乗せ,宿屋に連れて行って介抱した。

35そして,翌日になると,デナリオン銀貨2枚を取り出し,宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら,帰りがけに払います。』

36さて,あなたはこの三人の中で,だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

37律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで,イエスは言われた。「行って,あなたも同じようにしなさい。」



『良いサマリア人』の譬え話に登場する祭司やレビ人は、自分の事だけで自分の心が占められてしまっている状態で、強盗に襲われ半死半生の隣人に助けを差し伸べることができない。私達の日常生活を顧みてみると、自分の生活に追われて隣人の痛み・苦しみに対しリアリティーを持っていないのではないだろうか?『良いサマリア人』は、倒れている人の痛みを認識する力があった。隣人を愛するとは、相手の立場と自分の立場を取り替えて考え、隣人がどう感じ考えているかをイマジネーションにより共感することである。

ただ『良いサマリア人』のした事を、あまり偉大な事と考えるのは良くない。サマリア人がしたのは、いわゆる「惻隠の情」による応急措置であり、怪我人を宿屋に委ねたことである。考えてみると本当に大変であったのは委ねられた宿屋の主人ではなかっただろうか?主イエスは『良いサマリア人』の譬え話の中で、神様が求められているのは、我々がサマリア人のように隣人に共感して、日常生活で出来ることをして、宿屋の主人であり全て引き受けることのできるを神様のところに隣人を連れて行って委ねることであることを教えている。

BGMは、Bachのコラール「目覚めよとわれらによばわる物見らの声」作品645番です。


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