8月17日 「祈りの家として」 マルコによる福音書
11章12-19節
「いちじくの木を呪う」
12
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。13
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなっていないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。14
イエスはその木に向かって、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。弟子たちはこれを聞いていた。
「神殿から商人を追い出す」
15
それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。16
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。17
そして,人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」18
祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群集が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。19
夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
本日の聖書の箇所で、主イエスは「いちじくを呪うこと」と「宮清め」をされた。
この二つの出来事のうち後半の「宮清め」は私達にも良く理解できるものであるが、前半の「いちじくを呪うこと」は多くの聖書学者にさえ難解なもので、主イエスの言葉は理不尽にさえ感じる。しかし聖書のこの二つの出来事は一つのことを示している。つまり主イエスは「常に祈ること」すなわち全ての民が神に従うべきことを確信をもって教えられているのである。そして神に従うことは、常に実りを求められ、そして実りが与えられる。
主イエスに呪われ枯れてしまったいちじくは、実を結ばない民の滅亡を象徴している。神に選ばれた民イスラエルは、主イエスの教えにもかかわらず「時が満ちた」状況の中でも神に従うことなく、いちじくが緑の葉を繁らせているように見せかけの信仰に支配されていた。主イエスは、全身全霊をもって神を礼拝していないイスラエルに怒り、「宮清め」を行われたのである。
私達も全身全霊をもって神を礼拝しているだろうか?コリントの信徒への手紙にあるように、私達のからだ自体が神の生きた神殿となる。ありのままの自分・隣人を認め、人生の歩みの先頭を神様に任せることにより、はじめて大きな平安を得ることができるのである。真の神様を見上げ、私達のからだに神様が住んでくださることにより、実りが約束され、私達自身が「祈りの家」となることができる。そしてそれが真の信仰の姿である。
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