4月8日  「人生の土台」    マタイによる福音書 7章21節-29節

「わたしに向かって、[主よ,主よ]と言う者が皆,天の国に入るわけではない。
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
かの日には,大勢の者がわたしに、[主よ,主よ,わたしたちは御名によって預言し、
御名によって悪霊を追い出し,御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか]
と言うであろう。そのとき,わたしはきっぱりとこう言おう。
[あなたたちのことは全然知らない.不法を働く者ども,わたしから離れ去れ。]」
「そこで,わたしのこれらの言葉を聞いて行うものは皆,
岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家を襲っても,倒れなかった。
岩を土台としていたからである。
わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆,
砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
雨が降り,川があふれ,風が吹いてその家を襲いかかると、
倒れて、その倒れ方がひどかった。
イエスがこれらの言葉を語り終えられると,群衆はその教えに非常に驚いた。
彼らの律法学者のようにではなく,権威ある者としてお教えになったからである。

強固な岩盤があるからこそニューヨークの摩天楼が可能であるように、
充実した人生はしっかりとした土台の上に立つものである。
その為には表面的な情熱や行動ではなく,土台にまで達する知識,経験に
ふれる必要がある。そして聖書が言う土台とはイエスそのものである。
どんなに苦しい経験をしようとイエスがもっと深いところから支えてくださる。
--これが私たちの人生の土台である。
受難週はイエスの十字架の痛みが私たちの人生に
土台をすえるためのものだったことを思う時である.。

私たちに求められているのはそのイエスの土台まで深く掘り下げていくことであり、
それはイエスの言葉を「聞いて行う」ことである。
ただ「聞く」のではなく,実行が伴わなければならない。
イエスは弟子の足を洗い,同じように弟子たちも互いに足を洗い合いなさいと
命じた。 「仕える愛」は言葉ではなく実践である。
実践すればするほど,キリストの大きさに気づかされ,
イエスを見つめれば見つめるほど、その愛の偉大さに感謝する。
そのような創り主が私たちの人生の土台である。
これがキリスト者に与えられた恵みである。

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