4月29日  「救いを捨てない」   イザヤ書5章1節-7節

                   マルコによる福音書12章1節-12節

富士見丘教会協力神学生  東京神学大学 佐野 純

イザヤ書5章

わたしは歌おう,わたしの愛する者のために

 そのぶどう畑の愛の歌を。

 わたしの愛する者は,肥沃な丘に

   ぶどう畑を持っていた。

よく耕して石を除き,良いぶどうを植えた。

 その真ん中に見張りの塔を立て,酒ぶねを掘り

 良いぶどうが実るのを待った。

 しかし,実ったのは酸っぱいぶどうであった。

さあ,エルサレムに住む人,ユダの人よ

 わたしとわたしのぶどう畑の問を裁いてみよ。

わたしがぶどう畑のためになすべきことで

 何か,しなかったことがまだあるというのか。

 わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに

 なぜ,酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあ,お前たちに告げよう

 わたしがこのぶどう畑をどうするか。

 囲いを取り払い,焼かれるにまかせ

 石垣を崩し,踏み荒らされるにまかせ

わたしはこれを見捨てる。

 枝は刈り込まれず

 耕されることもなく

 茨やおどろが生い茂るであろう。

 雨を降らせるな,とわたしは雲に命じる。

イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑

 主が楽しんで植えられたのはユダの人々。

 主が裁き(ミシュパト)を待っておられたのに

 見よ,流血(ミスパハ)。

 正義(ツエダカ)を待っておられたのに

 見よ,叫喚(ツエアカ)。

マルコによる福音書12章

イエスは,たとえで彼らに話し始められた。

 「ある人がぶどう園を作り,垣を巡らし,搾り場を掘り、

 見張りのやぐらを立て,これを農夫たちに貸して旅に出た。

収穫の時になったので,ぶどう園の収穫を受け取るために,

 僕を農夫たちのところへ送った。

3だが、農夫たちは,この僕を捕まえて袋だたきにし,

 何も持たせないで帰した。

そこでまた,他の僕を送ったが,農夫たちはその頭を殴り,侮辱した。

更に,もう一人を送ったが,今度は殺した。

 そのほかに多くの僕を送ったが,ある者は殴られ,あるものは殺された。

まだ一人,愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』

 と言って,最後に息子を送った。

農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ,殺してしまおう。

 そうすれば,相続財産は我々のものになる。』

そして,息子を捕まえて殺し,ぶどう園の外にほうり出してしまった。

さて,このぶどう園の主人は,どうするだろうか。

 戻って来て農夫たちを殺し,ぶどう園をほかの人たちに

 与えるにちがいない。

10聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。

 『家を建てる者の捨てた石、

  これが隅の親石となった。

11これは,主がなさったことで、

  わたしたちの目には不思議に見える。』」

12彼らは,イエスが自分たちに当てつけて

  このたとえを話されたと気づいたので、

  イエスを捕えようとしたが、群集を恐れた。

  それで,イエスをその場に残して立ち去った。

私達は人生において壁に直面し,自分の願い通りに生きることは難しい。

今朝の聖書のみことばはこのような思いに指針を与えるもの。

イザヤのぶどう園は神の民イスラエルを譬えており,イエス様の

ぶどう園の譬えを新しい神の民イスラエルとして私達は聞かなければならない。

世界は主なる神が創られ,私達に預けておられる。

神は充分な備えを私達に与えておられるが,神の期待に応えることができない。

イエスは人間は神に逆らって生きていると言っている。

人は都合の善し悪しで神に対応しているが、

神のみことばを黙殺する人間を神は見過ごしてゆかれるか。

神のみことばは全ての中に立ち,人の願いではなく、

神のみこころが実現することを示している。(詩篇118編)

みことばが確立することを目指して生きることから

まことの信仰に立つことができるのです。

みことばに聞くに戻る