4月27日 「真の一番を望む」 マルコによる福音書
9章30-37節
「再び自分の死と復活を予告する」
30
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。31
それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32
弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。「一番偉い者」
33
一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34
彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35
イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」36
そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37
「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
愛し合うことは互いに見つめ合うことではなく二人が同じ方向を見つめて歩むことである。
(サン=テグジュペリ)
教会に集う者は、正しい一つの方向である唯一の神を見出すからこそ、この詩のように隣人に愛を示す強い者とされる。
人の子は殺され、三日の後に復活するとイエスが言っておられたのに、弟子たちは誰が一番偉いかと議論し合っていた。主は「一番先になりたい者はすべての人の後ろになりすべての人に仕えなさい」と言われた。イスカリオテのユダもいた。又、幼子を抱き上げ教えられた。「わたしに名の為にこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と・・・・
変化してしまうものの目標に向かって一番であろうと求めることではない。無力の象徴である幼子の罪を救われたこの主の教えのお姿、主の姿を持って歩む私共、信仰と生活が一つとなった私達が持つべき姿である。日々の歩みの中で主イエスのみ心はと本当の基準を見出し強く歩むことが求められる。
主の姿を追い続ける一番になりたい。
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