4月13日  「神のまなざしの中へ」 マルコによる福音書914-29

「汚れた霊に取りつかれた子をいやす」

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。

15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。

16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、

17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。

18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」

19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスのところに連れてきた。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは、群衆が走り寄ってくるのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

自分の不信仰に気づき、無力さを知り、全てをゆだねることをしなければ歩むことすらできないというのがキリスト者の唯一の姿である。そこで与えられる約束は人間が神のものであるということである。イエスは神の権威をもって私たちを様々な縛りから開放するために乗り込んできてくださる。それに対抗できるものは何もない。だからこそ、私たちは自由になって、どんな苦しみがあっても喜びと平和の中に戻れるのである。

キリスト者になることを「回心する」という。自分の力で今までの心を捨て、新しい心をつくる(改心)のではなく、心の向きがすっかり変わってしまうことである。生まれ持った心の向きを神によって変えてもらった存在がキリスト者なのである。その時に信仰が与えられる。私たちの歩みが命の歩みに変えられるのである。

今朝の箇所では失望と落胆にくれている親子に対して弟子達の祈りがかなわず、その弁解をしている。彼らと同様、私たちは祈る時に本当に信じる心が輝いているだろうか。自分の弱さを隠すために自分を弁護し、神にその責任を負わせていないだろうか。しかし、イエスは不信仰をただ嘆き、見捨てる方ではない。そこに乗り込んできてくださる。そして信仰のない時代のただなかでもう一度信仰を見出そう、生み出そうとしてくださるのである。不信仰の私たちに目を向け、神のまなざしの中へ身を投げるように促してくださっているのである。

 

ホームページに戻る   み言葉に聞くに戻る