ぶどうの木 第12号  2006年6月18日発行

 

聖書:エフェソの信徒への手紙四章三〇節

私たちイエス・キリストによって罪を贖われたキリスト者が再び罪を犯すとき、だれよりもまず第一に嘆き悲しむのは、神の聖霊です。叱るのではなく、見捨てるのでもなく、悲しまれるのです。この神の聖霊は、たとえば、弁護者とか、真理の霊、とも言われています。聖霊は、私たちのために、弁護者として立ってくださっている、イエス・キリストが天に昇られ、やがて再び私たちのもとにおいでくださるまで、私たちを支えてくださる方です。  

 

主イエス・キリストは天に昇られるとき、弟子たちに、この聖霊を与えると約束されました。その聖霊が弟子たちにくだった出来事が、ペンテコステです。今年は六月四日でした。私たちは洗礼・聖餐によってこの聖霊を受け、この聖霊によって、贖われたものであり、罪赦されたものである、ということを保証されているのです。

ここから私たちの倫理が生まれます。私たちの生活の規範が生まれます。私たちは、聖霊が喜ばれるように、聖霊の思うところに導かれて、聖霊に従うということが、キリスト者の生活の具体的な原理です。聖霊が喜ばれること、それは互いに赦し合うことです。しかし、赦すということは、口で言うほど簡単なことではありません。神がキリストによって私たちを赦してくださるから、私たちも赦し合えると聖書は語ります。人の思いだけでは起こりえぬことであり、そこには聖霊の働きかけがあります。それは、私たちは、もうすでに救われている、というところから出発している、ということです。

それでは、聖霊を悲しませることとは、また、聖霊が喜ばれることとは、具体的にどのようなことでしょうか。前者は、無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどであり、それらは「悪い言葉」となって耳に聞こえてきます。後者は、互いに親切にし、憐れみの心で接することです。それらは「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉」として耳に聞こえてきます。「造り上げる」という言葉は、教会を造り上げる場合にも使われます。その人を、そして、教会を造り上げる究極の言葉は福音を告げる言葉です。

私たちが語る言葉には、意識的になされるにしろ、無意識になされるにしろ、人を傷つける言葉、人を中傷する言葉の多さに比べて、人をほめたり、人の過ちや欠点をかばう言葉が少ないことを、私たちが常に、再び罪を犯し続けることから逃れられないものであることを、しばしば思わされます。イエス・キリストによって罪を贖われた私たちが再び罪を犯すとき、叱るのでもなく見捨てるのでもなく、悲しんでくださる神の聖霊に導かれて、日々を過ごし、キリストにならう者へと成長していきたいと思います。

 

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