1月18日  「キリストの生命によって養われる」 マルコによる福音書1422-26

「主の晩餐」

22  一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」

23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、かれらにお渡しになった。かれらは皆その杯から飲んだ。

24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。

25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」

26 一同は讃美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 クリスマスは私達の主イエス・キリストがこの世に降誕された喜びと同時に、マリアとヨセフにとっては平穏な生活の中に神が入ってこられる苦悩があった。しかし苦悩が全てではなく「インマヌエル」(神は我々と共におられる)という新しい約束の始まりであり、マリアとヨセフは神とともに生きること(福音)を受け入れたのである。私達も、神の言葉を信じ、主イエスこそ神が共にいてくださる証しであることを信じることによってのみ、想像を超えた困難を克服して、平安の道を歩むことができるのである。

 罪とは分断であり、その分断の故に不安・恐れ・絶望が生まれる。罪により、神と人・人と人・自分の中に分断が生じ、人間本来の姿から遠ざけられてしまう。この分断のうち神と人との分断は、人間のちからではどうしても埋めることができない。しかし神ご自身が御子を送り込み、共におられることを示し、目に見える形で分断を埋めてくださった事実が、主イエス・キリストの降誕である。

 神のなさることがわからないこと故に不安はあるが、一人神の前に立ち続けようとするとき、神のみ言葉が私達のもとに示される。主イエスがインマヌエルを宣言することにより、私達は孤独から解放されるのである。主イエス・キリストを身に纏うことが、インマヌエルという事実を確信し、歩むことのできる唯一の道である。インマヌエルの事実を私達に与えられた約束として文字通り受け止めて、平安の道を歩んで行きたい。

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