1月11日 「わたしの招く所へ」 マルコによる福音書14章10
-21節「ユダ、裏切りを企てる」
10
十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。11
彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折りよくイエスを引き渡せるかとねらっていた。「過越しの食事をする」
12
除酵際の第一日、すなわち過越しの子羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13
そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14
その人が入っていく家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしたちの部屋はどこか」と言っています。』15
すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16
弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越しの食事を準備した。17
夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。18
一同が席について食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19
弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20
イエスは言われた。「十二人のうちの1人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21
人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
主の最後の晩餐は教会が行っている聖餐式の原型である。教会以外でも様々なイメージで描かれるものであるが、イエスが示されたこの晩餐は美しいだけのものではない。ゆるぎない神の道が示された出来事なのである。私たちは聖餐式においてどれほどこの意味を考えているだろうか。弟子たちは聖書に書き記される前から聖餐を守っていたが、それはこの最後の晩餐の記憶、すなわち、その喜びと恵が心に焼き付いていたからである。そこに永遠に変わらない神の真理が示されているからこそ後の時代に伝えられていった。
この晩餐が行われた時には裏切りが準備され、イエスの十字架への道は決定的になっていた。イエスには全てがわかっていたが、席上での言葉は誰が裏切ったかを示して責めているわけではないし、又、自分も裏切っているのではと心配することを求めているわけでもない。神に背く自由をも持った人間が選ぶ神への応答の責任が示されている。私たちがへりくだり神の示す道を歩むことが求められている。神は御子の命に代えても私たちが神のもとの食事に集まるように招いておられる。「私の招く食卓に集いなさい」と言う神の言葉に従ってこの一年を歩んでいきたい。
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