11月9日  「命の尊厳を見詰めて」  ルカによる福音書1619-31

東方敬信牧師

「金持ちとラザロ」

19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、

21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。

22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。

23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。

24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』

25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。

26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に超えて来ることもできない。』

27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。

28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』

29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』

30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』

31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』

私たちが生きているこの社会では、命の尊厳が軽視されている冷酷な現状が存在している。
「金持ちとラザロ」の譬話は、私達に刃のように鋭く問いかけ、また、私たちの限界を示している。

イエスは、毎日門前で目にしたラザロに対して無関心でいた金持ちの譬で、私達にも、同じような冷酷さ、冷淡さで日頃、周囲に接していないかと問いかけられている。或いは、社会的に関心を持ち、そのような活動に積極的に参加しているとしても、機械的、形式主義的となり、本質的には無関心になってしまってはいないかと問いかけている。

そして、この譬のもう一つの教えは、モーセと預言者に耳を傾けよ、即ち、イエス・キリストに聞き従って生きよと言うことである。

慈善事業を意味するチャリテイの語源であるラテン語のカリタスは神の愛、神の慈しみを意味している。神の愛、聖書の愛は、熱く関係を求める連帯する愛であり、貧しさの象徴である馬小屋で生まれ、その存在の全てを捧げ尽くして、私たちの罪を背負い十字架により贖われ復活されたイエス・キリストによって示された愛である。この愛により、破れのある私が生かされている、そうした心の深いところで悔い改め砕けた魂でイエス・キリストを見詰めるとき、この社会でなすべきこととの繋がりができ、真に目覚めた魂の生き方が生まれ、新しい希望の芽生えが生じる。

命の尊厳を見詰めることは、イエス・キリストを正しく見詰めることである。

ホームページに戻る   み言葉に聞くに戻る