11月2日  「主の宣言を受けて」 マルコによる福音書1235-40

「ダビデの子についての問答」

35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。

36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』

37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群集は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

「律法学者を非難する」

38 イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されるkと、

39 会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、

40 また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

 本日の聖書の箇所で、群集は主イエスの教えに喜んで耳を傾けたが、後に主イエスを「十字架につけろ」と言うように神の教えに聞き従うことはできなかった。彼らはローマ帝国の支配から解放してくれるメシア・キリスト=ダビデの子に期待と希望をもって生活していたが、主イエスはご自身で否定されたように彼らの望むメシアではなかった。私達も主イエス・キリストに期待と希望をもって毎週の礼拝に参加しているが、その期待と希望が自分に都合よく変化して、それ自身が神となっていないだろうか?

「キリストは誰であるか?」神は日々私達に問いかけられている。その問いに私達は全身全霊で応えることによって、「わたしはあなたの主である」という主イエスの宣言が一つの光として与えられる。私達はこの主イエスのみ言葉により日々新たにされているだろうか?都合の良いときにだけ良きキリスト者として振舞うような見せかけの姿は、主イエスは愛のお方であるだけに人一倍厳しい裁きを受けるとも宣言されている。しかし主イエスを自分の主であると信じる一点から素晴らしい歩みが始まることをこのみ言葉は約束する。主イエスの宣言を源にすることにより真の平安と尽きることのない希望・慰めが約束されていることが、先達たちの復活の命の輝きから今朝私達は示されているのである。

 「わたしはあなたの主である。」このみ言葉にしっかり立ち、先達たちの歩まれた復活の命を信じ、この身に輝かせて歩んで行きたい。

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