10月12日 「共に従う者として」 フィリピの信徒への手紙
2章12-18節兼子洋介神学生
「共に喜ぶ」
12
だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。13
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。14
何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。15
そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、16
命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしたちは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。17
更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。18
同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。
パウロはキリストに目を向けさせることで、キリストが求めているものは何かを常に聞き手に考えさせる。「愛する人たち」という呼びかけで、パウロは私達がキリストによって結びつけられたお互いであるということを深く刻みつける。共に同じ主を見上げることにより思いが一つになって愛し合うことができるのである。「愛する」という時、私達は横の関係に先だって、神と人との縦の関係をしっかりと保たなければならない。それは心を低くし、へりくだることによってもたらされる。これは従順にも通じる。
従順というと私達にとって人の尊厳を踏みにじるもの、抑圧や支配に通じるものとして抵抗を感じる言葉である。しかし私達が考えるべき従順はキリストにこそ従うという決心である。パウロのように目に見える指導者ではなく、その後ろにいる神への従順こそが求められている。
ではキリストへの従順がどのように自分の救いと結びつくのだろうか。神の前に恐れおののいてへりくだり、心を合わせて神を見上げる共に従う群のうちに、神は救いの達成を置いてくださる。この共に従う場が教会である。主の日の礼拝を大切にすることによって私達の内に喜びが与えられるのである。
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