2007年9月9日

 

『一粒の麦』          秋葉恭子牧師

ホセア書22025
マルコによる福音書 15章42〜47節

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私たちは使徒信条で、十字架のあと「死にて葬られ、陰府にくだり」と丁寧に告白する。それは、葬られたこと、陰府にくだられたことに意味があるからである。

使徒信条の最後の「とこしえの命」とは、神の国に入れられること、即ち、神が共にいてくださる、神との交わりに生きる世界である。一方、死とは、神との交わりを絶たれること、神から見捨てられることであり、神は、御子イエスを十字架上で完全に見捨てられ、断罪された。自己中心的な思いに囚われ、神から離れ罪と死の虜となった私たちを、神のもとに立ち帰らせるために、御子において私たちの罪を完全に断罪され、私たちを罪と死の虜から解放してくださった。そして、陰府にくだり絶望のどん底をつぶさに味わわれた主イエスが復活されて私たちと共にいてくださる、そのことを常に確認するのが、死にて葬られ、陰府にくだり、と言う告白である。

アメリカの神学者ウイリモンは、主イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたときに、救いの業が開始され、十字架と墓においてそれが完成されたと説いている。洗礼は、主イエスにとって死の始まりであったのだ。主の死を通して与えられる聖餐の恵みである。マルコによる福音書は主イエスの洗礼から書き記されており、マルコの主題も、主イエスの十字架に至る受難であり、主は父なる神の人間救済計画によるご自身の務めに、陰府にくだるまで従順に服従されたことを記している。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と主イエスは十字架の死を一粒の麦のたとえで話された。私たちも主の死に与り、主の十字架から勇気を頂き、キリスト者として福音を証する歩みを続けて行きたい。

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