923 『信仰の本質』           秋葉 恭子 牧師

             詩篇1161節〜19節・マルコによる福音書 169節〜13

七つの悪霊にとりつかれていたマグダラのマリアは、イエスとの出会いで救われ生まれかわった。主の十字架上での死を目にしても、生前と変わらぬ愛と尊敬の念を持っていたマリアは墓に出かけ、復活したイエスの最初の証人となる。主イエスに救われ結ばれた者は信仰によってなぐさめを受け希望が与えられる。その時信仰の力は生きるための大きな力となり、恐れを取り除く。しかし、マリアの証言でも、復活のイエスがエマオへの途上で姿を現されたことを伝える者がいても、弟子達は主の復活を信じなかった。

信仰の本質は信じることである。カール・バルトは「何事かの<ゆえに>信ずるのでもなければ、何事かに<基づいて>信ずるものでもない」と述べている。また、「ある日、信ずることを許されるようになり、さらにまた、一切の事物に抗して、信ぜざるをえないようになったのである」ともバルトは述べている。信じることも神からの恵みである。ひたすら神の恵みを祈り求めていきたい。そうすれば、神は必ず信じる者とならせてくださることについて、マタイ福音書に「求めるものは与えられ、探すものは見出すのである」と記されている。

詩篇116編に「激しい苦しみに襲われている時も主は憐れみ深く正義を行われる、と信じる」と信仰の真髄が語られる。主から罪の赦しの恵みを受け、それに応答して、苦しい状況の中でも忠実に主に従ったマグダラのマリアは、復活の主イエスの初めての証人とされた。そして、主の復活を告げ知らせに出かけたのである。主との交わりに生きる信仰者の姿が描かれている。おりが良くても悪くても、主は憐れみ深く正義を行われる方だと力強く告白しつつ、御国をめざしてこの世の旅路を続けたい。

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