8月5日 「イエスとピラト」 イザヤ書53章7節、マルコによる福音書15章1−5節
秋葉恭子牧師
イザヤ書53章
7
苦役を課せられて、かがみ込み
彼は口を開かなかった。
屠り場に引かれる子羊のように
毛を切る者の前に物を言わない羊のように
彼は口を開かなかった。
マルコによる福音書15章
1
夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や立法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
2
ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
3
そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
4
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
5
しかし、イエスがもはやお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。
最高法院は主イエスの死刑が決議されていたにも係わらず、民衆を恐れて、自分達の身の安全を図り、神への冒瀆罪をローマ皇帝への反逆罪にすり替えて、ピラトによって主イエスを公に抹殺しようと考えた。またピラトも弾圧によって権力を維持している俗物であり、主イエスの言葉の響きにあるように、主イエスとは決して混じりあうことのない水と油の関係であった。主イエスとピラト・最高法院の間には、清濁・善悪・光と闇という超えることのできない溝がある。
主イエスの眼差しと言葉に捕らえられた生き方は、主イエスの愛と赦しの中で、あるがままの自分を主イエスに投げ出すことであり、そこに平安と自由があるのに対して、金と権力に価値を見出すピラトや最高法院の生き方は、平安も自由もなく不安だけがある。
そのようなピラトは、主イエスの受難が神の御計画であることを理解できるはずもなく、「不思議」に思うだけであった。父なる神の御計画に従って主イエスが人々の罪のために御自分の命を捨てようとなさっている奇跡を理解できずに、福音の恵みを悟ることがなかった。
それに対し、私達キリスト者は、御子なる神である主イエス・キリストを通して父なる神を知り、聖霊なる神によって清らかな者、正しい者、良い者へと変えられている(義認と聖化)。そして主イエスと共に神の国へ入れられることを約束されているのである。その恵みに相応しい歩みをなしたいと切に祈り求めてゆきたい。