8月26日 「十字架につけられる」 詩編2217-19節、

マルコによる福音書1521-32節  

秋葉恭子牧師

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詩編22

17 犬どもがわたしを取り囲み

  さいなむ者が群がってわたしを囲み

    獅子のようにわたしの手足を砕く。

18 骨が数えられる程になったわたしのからだを

    彼らはさらしものにして眺め

19 わたしの着物を分け

  衣を取ろうとしてくじを引く

 

マルコによる福音書15

21 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が,田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。

22 そして、イエスをゴルゴタという所−その意味は「されこうべの場所」−に連れて行った。

23 没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。

24 それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、

  その服を分け合った、

  だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。

25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。

26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれてあった。

27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。

28 

29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、

30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」

31 同じように、祭司長たちも立法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。

32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

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イエス・キリストの生涯の本質は受苦である。当時十字架は最も残酷な見せしめの刑であり、縦の棒は処刑場に立てられていたが、横の棒は罪人が自分で担いで歩かされていた。しかし、度重なる暴力を受け、茨の冠をかぶせられた主イエスは、もはや横木を担いで歩くことができないほど疲労困憊していた。そこで、兵士たちはキレネシモンに処刑場まで横木を無理に担がせたのだが、はからずも、そこで、シモンは主イエスの処刑を目撃することになり、正しい神の子が十字架につけられたことを、罪のない主イエスが罪人の苦難を引き受けられたことを彼は理解した。すなわち、主イエスは自分を救わず、他人を救われる方であることを十字架は指し示しているのである。

マルコ8章34節「私の後に従いたいものは自分を捨て十字架を背負って私の後についてきなさい」の御言葉のとおりに主に従うことは、場合により命を危険にさらすこともある。科学者から神学者になったマクグラスは「キリストに従うことは栄光だけでなく十字架の苦しみも共に味わうことである」という逆説を述べている。この逆説は、「主の苦しみは私の罪の贖いのためであった」と信じることから導かれる。また、私達にとって、キリストの栄光へ至る一筋の道の関門の一つが十字架であるとも言える。主の凄惨な受苦の意味を、人間的な同情の念で理解する消極的理解を賛美歌136番に、〔私達の罪に対する〕神の<怒り>と、〔赦そうとする〕神の<愛>との戦いと理解する積極的理解を賛美歌262番に見て取ることができる。十字架における神の<怒り>と神の<愛>との戦いは、愛が怒りに勝るという結果に至り、それは復活によって示される。神に捕らえられて初めて信仰が与えられ、十字架に示されたダイナミックな「義と愛なる神」によって私達は造りかえられるのである。神の摂理は私達の想像をはるかに越えて道は整えられている。

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