8月19日 「苦難の王」 イザヤ書53章3節、マルコによる福音書15章16-20節
東方敬信牧師
イザヤ書53章
3
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
マルコによる福音書15章
16 兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた。
17 そして、イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶらせ、
18 「ユダヤ人の王、万歳」と言って敬礼し始めた。
19 また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。
20 このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。
全世界の教会が礼拝ごとに告白している使徒信条は、洗礼を受ける人々の準備の言葉として自然に生まれた歴史を持っている。この使徒信条は、「おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、」とイエスの生涯に触れずに一気に生まれてから苦しみと十字架を語っている。あたかも、主イエスは苦しむために生まれ、十字架につくために生まれた、とまとめている。
福音書記者マルコはイエスの出来事を「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。(12章10・11」」と、捨てられ苦しめられ十字架で葬られた主イエスが救いの土台になったと言う真理を語っている。また、今日の主イエスが兵士から侮辱される聖書の箇所でマルコが言おうとしているのは、ここまで身を低くされ、私たちを救いの中に取り戻そうとした主イエスの献げ切った献身的な愛がここにある、これが勝利なんだと。
神学者ボンヘッファーは、ナチスによって処刑される直前に、「キリスト者にとって、獄においてもクリスマスを守れるのは難しいことではない。なぜなら、あざけられ、捨てられ、人としてあらゆる苦しみを受けられた主イエスが共にいてくださるからだ。」と言った。
どのような人間の苦しみも主イエスが経験されなかった苦しみはない。主イエスは、苦しみ、痛みを抱きしめて尊厳を持って堂々と十字架に向かって歩まれた。主イエスを通して、神は現実の歴史の中でご自身を捧げる仕方でご自分を現された。私たちは主イエスの十字架を見上げ、主イエスの献身的な愛がキリスト者の自然な献身的生活の出発点にあることを確かめながら日々の歩みを進めて行きたい。