8月12日 「イエスかバラバか」 イザヤ書53章3節、
マルコによる福音書15章6−15節
秋葉恭子牧師
イザヤ書53章
3
彼は軽蔑され、人に見捨てられ
多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し
わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
マルコによる福音書15章
6 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。
7
さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。
8
群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。
9
そこでピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。
10
祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
11
祭司長たちは、バラバのほうを釈放してもらうように群衆を扇動した。
12
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
13
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
15 ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
今日の聖書の個所で、バラバは主イエス・キリストとは対照的な姿で登場する。ピラトとバラバは、立場は異なるが、同じ生き方をしていると言える。それは自分の才覚と力に頼る生き方である。一方、主イエスは父である神への信頼と、人々に対する慈しみをもってこの世に降られた神のみ子である。『イエスかバラバか』という問いにおいて、自分の才覚と力に頼る生き方を選択するのか、神により頼む生き方を選択するのかを、私たちは問われている。そして、自分の才覚と力に頼る生き方をもってしては、人間は本当の救いと平安、すなわち罪の赦しを得ることはできない。
主イエスを釈放しようとしたピラトの計画は破たんする。ピラトは、恩赦により釈放されるのは当然イエスであると思っていたが、祭司長たちの扇動によって、群衆はローマに力で反逆したバラバの釈放を求めた。ホサナ、ホサナと主イエスを歓喜して迎えた群衆が、主イエスの惨めな姿と沈黙にメシヤの姿を認められなくなり、「十字架につけろ」と叫び続けたのである。群衆は主イエスではなく、バラバを選んだ。ピラトは群衆を満足させるために主イエスをむち打ち、引き渡した。つまり、ピラトは、民の歓心を得るために真理を曲げたのである。しかし、これはイザヤ書53章の苦難の僕の預言の成就であり、主イエスの十字架への歩みは、神のご計画であることを指し示している。
ピラト、バラバ、群衆は私たちの姿の一面ともいえる。主イエスの沈黙は神のご意思の堅さを示し、ご自身に鞭を受け、十字架に向かわれる。主イエスの十字架の意味はコリントの信徒への手紙U、5章21節に罪なきイエスを神は私たちのために罪に定め、それにより私たちは神の義を得ることができたとある。ローマの信徒への手紙5章1-5節では苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むとあり、主イエス・キリストの十字架によって私たちには神の愛と平安と希望が与えられていることが示されている。神ご自身と、その力に信頼するのが、神の恵みに生きるキリスト者の姿である。私たちはバラバではなく、主イエスを選ばなければならない。時にはつまずくことがあっても、赦しのみ手の中で神の国を目指して歩み続けたい。