7月8日 「ゲッセマネの祈り」 詩編42 1-12節、
マルコによる福音書14章32-42節
秋葉恭子牧師
詩編42
2
枯れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
3
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
4
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
5
わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす
喜び歌い感謝をささげる声の中を
祭りに集う人の群れと共に進み
神の家に入り、ひれ伏したことを。
6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
「御顔こそ、わたしの救い」と。
7
わたしの神よ。
わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
8
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深遠は深遠に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを超えて行く。
9
昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。
10
わたしの岩、わたしの神に言おう。
「なぜ、わたしをお忘れになったのか。
なぜ、わたしは敵に虐げられ
嘆きつつ歩くのか。」
11
わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き
絶え間なく嘲って言う
「お前の神はどこにいる」と。
12
なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう。
「御顔こそ、わたしの救い」と。
わたしの神よ。
マルコによる福音書14章
32 一同がゲッセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
33 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、
34 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」
35 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
37 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。
38 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
39 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。
40 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。れらは、イエスにどういえばよいのか、分からなかった。
41 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。」
42 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
「ゲッセマネの祈り」の箇所は、主イエスを神の独り子、救い主と信じる者にとってはなかなか想像しがたい光景である。「この杯をわたしから取りのけてください」と「汗が血の滴るように地面に落ち(ルカ22・44)」るほどに苦しみもだえながら祈られる主のお姿。
十字架の死を前にした主イエスのこの恐れ、苦しみ、不安、孤独、絶望の姿は、実は本来私たちが味わうべきものであった。私達は自分の罪について無知であり鈍感である。私達の言動は日々隣人を傷つけ、神を悲しませる。罪のもたらす結果は、この世に生を受けながら死んで土の塵に帰るしかない永遠の滅びである。私達は、この永遠の滅びの崖っぷちに立っている。
真実の愛の神は、同時に厳しい審判を下される義なる神である。義なる神が私達の罪に対して激しく迫り、神の独り子主イエスは、私達に代わって大罪人として神の前に立ち、私達の負うべき罰をお引き受けになり、私達に代わって永遠の滅びの恐れ、苦しみ、不安、孤独、絶望を味わってくださったのである。独り子を義のために死に至らしめる神の愛、父である神の御心に従って十字架により私達を救われた主イエスの赦しの恵みである。
祈りから戻られると、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」とイエスに言われた弟子たちは眠っていた。「心は燃えても、肉体は弱い。」人間の根源的な弱さを主はご存知であった。しかし「もうこれでいい。」と主は私達をお赦しになった。
主イエスの十字架の苦しみはゲッセマネの祈りにおいて既に始まっている。「目を覚ましていなさい。」とのみ言葉は、常に主イエスの十字架の苦しみと復活を心に刻んで主イエスに従う歩みである。それは、復活された主イエスの聖霊の力に支えられた歩みである。