7月29日 「貴重な涙」 エレミヤ書5章20―25節、
マルコによる福音書14章66−72節
東方敬信牧師
エレミヤ書5章
20 これをヤコブの家に告げ、ユダに知らせよ。
21 「愚かで、心ない民よ、これを聞け。
目があっても、見えず
耳があっても、聞こえない民。
22 わたしを畏れ敬いもせず
わたしの前におののきもしないのかと
主は言われる。
わたしは砂浜を海の境とした。
これは永遠の定め
それを超えることはできない。
波が荒れ狂っても、それを侵しえず
とどろいても、それを超えることはできない。
23 しかし、この民の心はかたくなで、わたしに背く。
彼らは背き続ける。
24 彼らは、心に思うこともしない。
『我々の主なる神を畏れ敬おう
雨を与える方、時に応じて
秋の雨、春の雨を与え
刈り入れのために
定められた週の祭りを守られる方を』と。
25 お前たちの罪がこれらを退け
お前たちの咎が恵みの雨をとどめたのだ。」
マルコによる福音書14章
66 ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、
67 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」
68 しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。
69 女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。
70 ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」
71 すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなた方の言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。
72 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。
マルコによる福音書の今日の箇所、「ペトロの否認」「ペトロの涙」の場面で、福音記者マルコが伝えようとしているのは、主イエスの救いの豊かさである。
他の弟子たちは逃げ出してしまったが、ペトロは遠く離れながらも主イエスの後を追って大祭司の屋敷の中庭まで来た。しかし、女中からイエスの仲間だと言われるのを聞いて3度否認した後、2度目の鶏の声を聞き、イエスの言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。ペトロが混乱してしまったのは、火にあたっていて女中からじっと見つめられたからである。
「火にあたっていて」の箇所はギリシャ語では「光の中に入って」となっており、ペトロは神の眼差しに見つめられて、自分を取り繕うとして混乱してしまったのである。いきなり泣きだした。「いきなり」とは「投げだす」との意味である。主イエスの言葉を思い出し、自分を取り繕うのはやめて、あるがままの自分を主イエスに投げ出し、主イエスの愛の涙の中に自分を溶け込ませたのである。
ペトロの弟子として初代教会を歩んだといわれるマルコは、ペトロから主イエスの十字架の愛で自分が生かされていることを幾度も聞かされていたであろう。ヨーロッパでは十字架の代わりに鶏を掲げている教会堂があるが、これは主イエスの復活と恵みを伝えると同時に、失敗したペトロでさえ恵みの中に生かされていることを知らせている。
私たちに与えられている礼拝堂が、主イエスの救いの恵みを賛美し、主イエスの愛の恵みの中に有のままの自分を投げ出すことにより、新しい出発点が与えられて立ち上がっていく聖なる空間であることをあらためて確認しておきたい。