6月17日 「まさかわたしのことでは」 イザヤ書61-13節、

                    マルコによる福音書1410-21

                                          東方敬信牧師

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イザヤ書6章  

1   ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。

2   上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。

3   彼らは互いに呼び交わし、唱えた。

  「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。

   主の栄光は、地をすべて覆う。」

4   この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。

5   わたしは言った。

  「災いだ。わたしは滅ぼされる。

   わたしは汚れた唇の者。

   汚れた唇の民の中に住む者。

   しかも、わたしの目は

    王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。

7   彼はわたしの口に火を触れさせて言った。

  「見よ、これがあなたの唇に触れたので

   あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」

8   そのとき、わたしは主のみ声を聞いた。

  「だれを遣わすべきか。

   誰が我々に代わって行くだろうか。」

  わたしは言った。

  「わたしがここにおります。

   わたしを遣わしてください。」

9   主は言われた。

  「行け、この民に言うがよい

   よく聞け、しかし理解するな

   よく見よ、しかし悟るな、と

10  この民の心をかたくなにし

  耳を鈍く、目を暗くせよ。

  めで見ることなく、耳で聞くことなく

  その心で理解することなく

  悔い改めていやされることのないために。

11  わたしは言った。

  「主よ、いつまででしょうか。」

  主は答えられた。

  「町々が崩れ去って、住む者もなく

  家々には人影もなく

  大地が荒廃して崩れ去るときまで。」

12  主は人を遠くへ移される。

  国の中央にすら見捨てられたところが多くなる。

13  なお、そこに十分の一が残るが

  それも焼き尽くされる。

  切り倒されたテレビンの木、樫の木のように。

  しかし、それでも切り株が残る。

  その切り株とは聖なる種子である。

 

マルコによる福音書14

10  十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。

11  彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折りよくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

12  除酵祭の第一日、すなわち過越しの子羊を屠る日、弟子達がイエスに、「過越しの食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。

13  そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。

14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越しの食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』

15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」

16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越しの食事を準備した。

17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。

18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」

19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしでのことでは」と代わる代わる言い始めた。

20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。

21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」

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イザヤ書63節の聖なる、聖なる、聖なる万軍の主との呼び交わしは、み言葉に立つ教会を表している。聖書のみ言葉に真剣に向き合い続けることが、教会を教会たらしめる。ウジア王の時代にイザヤは自分の汚れと民の汚れを認めて主を仰ぎ見る。

マルコの今朝の箇所ではイスカリオテのユダの裏切りを通して人間の罪の深さ、主イエスの愛の深さを味わう。10節の「引渡し」は「裏切り」を意味している。ユダのこの出来事を主イエスは見抜いておられた。ユダは神の子を裏切ることによって神を裏切っているのである。18節の主イエスの警告に対して、弟子たちの驚きが見える。19節の「まさはわたしのことでは」の言葉から弟子たちの自信のなさ、不安が隠せない様子が見える。しかし、彼らは自分のことしか考えず、主イエスの苦難の道には思いいたっていない。主イエスは十字架の道を歩まれるのである。

聖書と向き合うとは、心の闇の問題に救いの手を求め、主イエスの愛に立ち上がらせていただくことを感謝して生きることである。み言葉に聴くことから私たちは成長するチャンスを与えられる。ペトロはイエスを否認したが主の前に悔い改めて立ち上がった。しかし、ユダは、主に委ねることができなかった。

主イエスに委ねるなら、新しい道を備えられる。主イエスは最後の晩餐も周到に準備された。主イエスの十字架の愛、それは赦しの愛を分け合う新しい道も備えられることである。神の変わらぬ愛が、私たちを変えるのである。

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