5月13日 「みんなで一人を」 特別伝道礼拝  マルコによる福音書21~12                   山北宣久牧師

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マルコによる福音書2章 

1   数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、

2   大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、

3   四人の男が中風の人を運んで来た。

4   しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。

5   イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。

6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。

7   「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、一体だれが、罪を赦すことができるだろうか。」

8   イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。

9   中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起き上がって、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。

10  人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。

11  「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」

12  その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

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人間は他人を見ることが出来るが、自己を見ることが出来ないために、他人に厳しく、自己に甘くなる傾向がある。それゆえに、何に照らして自分を見るか、心の姿をどこで写しだすか、が問われる。答えは、聖書を鏡として、己が姿を見ることである。

今日の聖書の箇所で、主イエスは一人の人を救うための4人の姿に驚かれたことであろう。3節にある4人の人々には、愛の業を行うための技術、財力、勇気、決断、何よりもチームワークがあったといえる。いろいろな人がチームワークを組み、互いに支え合って社会が形成される。みんなが声を掛け合い、支え合い、祈り合いつつ、『みんなで一人』を支えて行く愛の業、そこに教会の存在があると言える。重荷を担い合い、支え合い、共に祈り合うことで人間になり、また、人間になり続けるのである。

さらに考えれば、私たちは教会においてよき出会いを与えられている。教会でのよき出会いが点から線、面へとつながり、私たちは生かされ生きているのである。そこには『みんなが一人を』という支え合いが働いている。この支え合いを神が求められ、用いてくださることによって、愛の共同体が作られていくとも言える。

4人の男たちが中風の人を救うために行なったことは、病人が上におり、主イエス・キリストが下にあってこの病人を癒されるという、象徴的な出来事を生み出している。つまり、主イエスは常に最も低い所におられ、私たちの救いとなってくださるのである。病人は死の床より起き上がらされ、新しい生命を与えられた。「起き上がる」、この言葉は復活をも意味する。復活の主イエス・キリストはいつも私たちと共にいてくださるのである。

 6-9節では、会話がなく物語が展開し、心の中の会話が記されている。5節あるいは9節に『あなたの罪は赦される』とあるが、罪の赦しと救いは聖書の大切なメッセージである。

 この癒しの物語の舞台となったカファルナウムには、「なぐさめの村」の意がある。現在の社会、世界がカファルナウムとなるよう、神を賛美して歩み続けたい。

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