2月4日 「福音の喜び」 イザヤ書35章1−10節、
マルコによる福音書10章46−52節
東方敬信牧師
イザヤ書35章
1
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ
砂漠よ、喜び、花を咲かせよ
野バラの花を一面に咲かせよ。
2
花を咲かせ
大いに喜んで、声をあげよ。
砂漠はレバノンの栄光を与えられ
カルメルとシャロンの輝きに飾られる。
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
3
弱った手に力を込め
よろめく膝を強くせよ。
4
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
見よ、あなたたちの神を。
敵を打ち、悪に報いる神が来られる。
神は来て、あなたたちを救われる。」
5
そのとき、見えない人の目が開き
聞こえない人の耳が開く。
6 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
荒れ野に水が沸きいで
荒れ地に川が流れる。
7
熱した砂地は湖となり
乾いた地は水の湧くところとなる。
山犬がうずくまるところは
葦やパピルスの茂るところとなる。
8
そこに大路が敷かれる。
その道は聖なる道と呼ばれ
汚れた者がその道を通ることはない。
主ご自身がその民に先立って歩まれ
愚か者がそこに迷い入ることはない
9
そこに、獅子はおらず
獣が上ってきて襲いかかることもない。
解き放たれた人々がそこを進み
10
主に贖われた人々は帰って来る。
とこしえの喜びを先頭に立てて
喜び歌いつつシオンに帰り着く。
喜びと楽しみが彼らを向かえ
嘆きと悲しみは逃げ去る。
マルコによる福音書10章
46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群集と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、テイマイの子で、バルテイマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでくだっさい」と言い始めた。
48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
50 盲人は上着を脱ぎ捨て、踊り上がってイエスのところに来た。
51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
本日の聖書の箇所は、イエス・キリストの十字架の場面に差し掛かってきている。もし私達が作者であれば、どのようにこの場面を伝えるだろうか?いよいよ主イエスとお別れする時が近づき、悲しい出来事と伝えるだろうか。マルコは、根源的な問いに対する答えをもつ神が私達のすぐ傍に居てくださるということを、喜びの出来事として描いている。
バルティマイは、「わたしを憐れんでください」と謙虚に主イエスに向き合おうとし、それに対して「安心しなさい。(勇気をだしなさい)立ちなさい。(前向きに新しく歩みだしなさい)お呼びだ。(主イエスという根源的な方と繋がっている)」と招かれた。
そして主イエスの問いに対してバルティマイは「見えるようになりたい」と打てば響くように応えた。肉眼の見える私達も、人間社会の中での評価、自分が何者かが理解できずに不安になっている。見えるようになるとは、私が嫌がられていたり疎まれていたりではなく、愛され歓迎され健やかな関係の中に入れられることであり、根源的なところで命を与えてくださった創り主である神との関係の中で和らぎの間柄を経験することである。神様はひとり子を賜ったほどに私達を愛してくださったのであり、私達は根源的なところで主イエスと心を通わせることができる。
バルティマイは見えるようになり主イエスに従う者となった。私達も躍り上がって主イエスに近づき、信頼関係の中で主に従う者となって日々を歩んでゆきたい。