1月14日 「主のまなざし」 申命記516-21節、

マルコによる福音書1017-31節  

秋葉恭子牧師

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申命記5

16 あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。

17 殺してはならない。

18 姦淫してはならない。

19 盗んではならない。

20 隣人に関して偽証してはならない。

21 あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、畑、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。

マルコによる福音書10

17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。

19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。言って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。

25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。

29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、

30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

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「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」と主イエスに尋ね、隣人の掟について「すべて行っている」と答えた青年に対し、主イエスは「あなたには欠けたものが一つある」と言い、「持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言われた。青年はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。

主イエスが「欠けたもの」と言われたのは、青年に自分という人間を中心にした生き方を見られたからである。主イエスは何よりも「あなたの主である神を愛すること」を指し示され、そして、第二の掟として「隣人を愛すること」を示された。「神を愛すること」なしに「隣人を愛すること」は起こりえないし、神に対する愛と隣人に対する愛は一つのものである。「持っている物を売り払え」と言う主イエスの言葉は、人間中心の生き方から、神中心の生き方への転換を示されたものである。そして、主イエスは愛のまなざしで青年を見つめられたのである。

主イエスは「持っている物を売り払う」ことが人間にはできないこと、神を愛し隣人を愛することができない人間の罪をご存知であった。だからこそ、主イエスは十字架の死と復活により私達の罪を贖われ救いへと導かれた。私たち既にキリスト者となっている者達も、かっては持てる物をも捨て切れずに、気を落とし悲しみながら立ち去ったことがあるのではないか。しかし、ふと顔を見上げたとき、主イエスの瞳に映された自分の姿、主イエスの愛と赦しのまなざしにふれて主に従う者とされた。

神中心の生き方とは、具体的に示すならば、教会における礼拝と奉仕の生活と言えよう。教会は常に主イエスの愛のまなざしが注がれているところ。私たちキリスト者は主の愛のまなざしに招かれ、主の愛のまなざしの中で生きる者である。

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