93 「人間らしく生きよう」  エレミヤ書294-14

                  マルコによる福音書66b-13節  

                     東方敬信牧師

エレミヤ書29

4   『イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。

5   家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。

6 妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。

7   私が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。

8   イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない。

9   彼らは、わたしの名を使って偽りの預言をしているからである。わたしは、彼らを遣わしてはいない、と主は言われる。

10  主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

11  わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

12  そのとき、あなたたちがわたしを呼び、きてわたしに祈りを求めるなら、わたしは聞く。

13  わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、

14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。私はあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かってそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

 

マルコによる福音書6

6b それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

7   そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、

8   旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、

9   ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

10  また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。

11  しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようとしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」

12  十二人は出かけて行って、悔改めさせるために宣教した。

13  そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。

 

本日の聖書の箇所で主イエスは、十二人の弟子たちを伝道に送り出すに際して、杖一本の他に何も持たせなかった。これは主イエスに遣わされたことのみで十分であり、人間の知恵の入り込む余地をなくし、主イエスによる全く新しい思いがけない平和を造り出す者として備えられていることを象徴している。私達は、聖書を通して福音に満たされ、「キリストの香り」だけで新しい平和を造り出す方法を教えられ続けている。

パウロは肉体的ハンディキャップを負い、治癒するように祈った。それに対して主は、私の恵みはあなたに対して十分であり私の力は弱い所にデュナミス(ダイナマイト)のようにあらわれると答え、パウロはキリストの愛により自分自身の弱さを曝け出すことができるように変えられた。

「キリストの香り」とは、「謙遜さ」と「確信」である。「謙遜さ」は、計算をして自分を認められようとするのではなく、破れを取り繕うことなく認める生き方であり、「確信」とは、その破れにキリストの恵みが込められていると信ずることである。

信仰における謙遜さとは、もっとも深い所や弱さの中にキリストの愛のデュナミスが宿っているという確信から、主イエスが共に居てくださる恵みにしっかりと繋がっていようと思うことである。十字架の主イエスの相手の痛みがわかる愛により、私達は主イエスに倣って仕える喜びを経験する。

「主イエスに仕える」−2000年間教会が喜び続けてきた業である

   

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