マルコによる福音書6章30-44節
東方敬信牧師
イザヤ書55章
1
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。
穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求め
値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
2
なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
飢えを満たさぬもののために労するのか。
わたしに聞き従えば
良いものを食べることができる。
あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
3
耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
聞き従って、魂に命をえよ。
わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。
ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
4
見よ
かってわたしは彼を立てて諸国民への証人とし
諸国民の指導者、統治者とした。
5
今、あなたは知らなかった国に呼びかける。
あなたを知らなかった国は
あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたの神である主
あなたに輝きを与えられる
イスラエルの聖なる神のゆえに。
マルコによる福音書6章
30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
33 ところが、多くの人々は彼らが出かけていくのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
34 イエスは船から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」
37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。
38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。
40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。
41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
42 すべての人が食べて満腹した。
43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
44 パンを食べた人は男が五千人であった。
先ごろ世界的規模を誇る巨大スーパーストアが重役として元修道女を採用した。平和のために指導的役割を果たしてきた方が経営者と労働者の和解の使者として抜擢をされた。
今日の聖書の箇所34節でイエスは群衆の飼い主のいないような有様をみて深く憐れみとあるが、彼女は企業の中でその力を発揮しようとしているのであろう。
5千人の人々に食事を用意するようにと弟子達に命じられる主イエスは、信仰は魂のことだけではなく、日常の生活にも関わることであるとの細かな配慮を示しておられる。当時の人々はこの食事の奇跡を出エジプトでのマナの出来事と重ね合わせていたであろう。そこには贅沢を求める欲望にモーセが怒ったことも記されている。
神の信頼に添う生活を忘れたことへの警告である。必要以上に求め、心貧しく生きてしまい、隣人に心を留めず自己中心に生きる。今日この貪欲な罪が格差を生んでいる。37節の「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とのイエスのみ言葉はたいへんに興味深い。そして賛美の祈りを唱え食事を与えられ出来事は、十字架の前夜の最後の晩餐の言葉とも重なりあっている。主イエスは、私たちの罪をあがない、新しい道を歩むように、ご自身の命を捧げられ、その徴としてパンとぶどう酒を分けられた。主イエスが5千人を養われたこの食事の奇跡には、主イエスに従うことの大切さが示されている。私たちも和解と平和を信仰の立場から築いていきたい。