マルコによる福音書5章21-24節・35-43節
東方敬信牧師
イザヤ書31章
1
災いだ、助けを求めてエジプトに下り
馬を支えとする者は。
彼らは戦車の数が多く
騎兵の数がおびただしいことを頼りとし
イスラエルの聖なる方を仰がず
主を尋ね求めようとしない。
2
しかし、主は知恵に富む方。
災いをもたらし
御言葉を無に帰されることはない。
立って、災いをもたらす者の家
悪を行う者に味方する者を攻められる。
3
エジプト人は人であって、神ではない。
その馬は肉なるものすぎず、霊ではない。
主が御手を伸ばされると
助けを与える者はつまずき
助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。
4
まことに、主はわたしにこう言われた。
獅子や若獅子が獲物を捕らえて、うなるとき
多くの羊飼いがそれに対して
呼び集められても
獅子はその声を恐れず
喚声にたじろぐことはない。
万軍の主は、そのように
シオンの山とその丘の上に降って戦われる。
5
翼を広げた鳥のように
万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。
これを守り、助け、かばって救われる。
マルコによる福音書5章
21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。
36 イエスはその話しをそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。
38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、
39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの両親と三人の弟子だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれた。
41 そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
42 少女はすぐに起き上がってきて、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるように言われた。
会堂長のヤイロの信仰に注目したい。当時の会堂長は、現在では県知事レベルの社会的地位があり、地域の政治・裁判の中心を担い、またそれ以上に人々から尊敬される人物であった。そのヤイロが、必死で全てを投げ出しイエス・キリストと向き合う。また主イエスも向き合ってくださる。娘の死に対して、自分の才能・財産・地位が役に立たないことを知り、イエスを信じることのみに一縷の望みをかけ、御言葉を鏡として人間の生と死をみつめて動じない信仰は、私達に「恐れることはない。ただ信じなさい」という強いメッセージを伝える。主イエスは、どういう立場の人であっても助けを必要とする人々を見捨てず、一人一人に全身を傾けて向き合って下さる。イザヤ書は、主に尋ね求めず、エジプトの馬や兵の数の多さにより頼む人々の姿を災いだ、と伝えている。私達はイエス・キリストによって、罪の支配から解放されているものである。パスカルはイエス・キリストにおいて死を考える際、「キリストは内では別のもの、死は聖なる全き喜びです」と言い切っている。時が良くても悪くても、パニックに陥らず、会堂長ヤイロのように、恐れずイエス・キリストに向き合えば今を落ち着いて生きる力が得られる。