820 「恐れることはない」  イザヤ書311-5節、

マルコによる福音書521-24節・35-43節 

東方敬信牧師

イザヤ書31

1   災いだ、助けを求めてエジプトに下り

  馬を支えとする者は。

  彼らは戦車の数が多く

  騎兵の数がおびただしいことを頼りとし

  イスラエルの聖なる方を仰がず

  主を尋ね求めようとしない。

2   しかし、主は知恵に富む方。

  災いをもたらし

  御言葉を無に帰されることはない。

  立って、災いをもたらす者の家

  悪を行う者に味方する者を攻められる。

3   エジプト人は人であって、神ではない。

  その馬は肉なるものすぎず、霊ではない。

主が御手を伸ばされると

助けを与える者はつまずき

助けを受けている者は倒れ、皆共に滅びる。  

4   まことに、主はわたしにこう言われた。

  獅子や若獅子が獲物を捕らえて、うなるとき

  多くの羊飼いがそれに対して

    呼び集められても

  獅子はその声を恐れず

  喚声にたじろぐことはない。

  万軍の主は、そのように

  シオンの山とその丘の上に降って戦われる。

5         翼を広げた鳥のように

万軍の主はエルサレムの上にあって守られる。

これを守り、助け、かばって救われる。

 

マルコによる福音書5

21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。

22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、

23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」

24      そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

 35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」

36 イエスはその話しをそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。

38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、

39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」

40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子どもの両親と三人の弟子だけを連れて、子どものいる所へ入って行かれた。

41 そして、子どもの手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

42 少女はすぐに起き上がってきて、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるように言われた。

 

会堂長のヤイロの信仰に注目したい。当時の会堂長は、現在では県知事レベルの社会的地位があり、地域の政治・裁判の中心を担い、またそれ以上に人々から尊敬される人物であった。そのヤイロが、必死で全てを投げ出しイエス・キリストと向き合う。また主イエスも向き合ってくださる。娘の死に対して、自分の才能・財産・地位が役に立たないことを知り、イエスを信じることのみに一縷の望みをかけ、御言葉を鏡として人間の生と死をみつめて動じない信仰は、私達に「恐れることはない。ただ信じなさい」という強いメッセージを伝える。主イエスは、どういう立場の人であっても助けを必要とする人々を見捨てず、一人一人に全身を傾けて向き合って下さる。イザヤ書は、主に尋ね求めず、エジプトの馬や兵の数の多さにより頼む人々の姿を災いだ、と伝えている。私達はイエス・キリストによって、罪の支配から解放されているものである。パスカルはイエス・キリストにおいて死を考える際、「キリストは内では別のもの、死は聖なる全き喜びです」と言い切っている。時が良くても悪くても、パニックに陥らず、会堂長ヤイロのように、恐れずイエス・キリストに向き合えば今を落ち着いて生きる力が得られる。

 

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