8月27日 「故郷では受け入れられない」 詩編92編2-7節、
マルコによる福音書6章1-6節a
2
いかに楽しいことでしょう
主に感謝をささげることは
いと高き神よ、御名をほめ歌い
3
朝ごとに、あなたの慈しみを
夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは
4
十弦の琴に合わせ、
琴の調べに合わせて。
5
主よ、あなたは
御業を喜び祝わせてくださいます。
わたしは御手の業を喜び歌います。
6 主よ、御業はいかに大きく
御計らいはいかに深いことでしょう。
7
愚かな者はそれを知ることなく
無知な者はそれを悟ろうとしません。
マルコによる福音書6章
1
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
2
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
3
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
4
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
5
そこで、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と神の国の福音を告げ、ガリラヤ地方で病人を癒し奇跡を行われて故郷ナザレにお帰りになった主イエスをナザレの人々は受け入れなかった。彼らは、主イエスの教えに大いに驚いたが、主イエスがご生涯の大半を過ごされたナザレの人たちにとっては、主イエスは大工の子であり、その兄弟姉妹と共に過ごしてきたために、主イエスの本質、即ち受肉された神の子であることを見抜くことができなかったのである。ナザレでは主イエスはほとんど奇跡を行うことができなかったが、これは人々の不信仰の故であった。一方、弟子たちは、主イエスに度々躓きながらも主イエスを信頼し主イエスに身を委ねて歩んで行った。
故郷は多くの人々にとって最も心を休めることが出来る場所である。地上にあって私たちと同じ普通の人間として生きられた主イエスは、私たちの救いのために故郷でさえも受け入れられないような人間としての生きる苦しみ、悲しみ、痛みをすべて経験され、十字架の死に至るまで謙遜と従順を持って神に仕え、私たちに真実の愛を示され、私たちを神の国へと誘われた。
キリスト者の本当の故郷、それは神の国である。この世の故郷は室生犀星の詩で吐露された「故郷は遠きにありて思うもの・・・」かもしれないが、キリスト者の故郷は聖書を通じていつも身近に思うものであり、この世で挫折と見做される折こそ主イエスは神の国に帰るよう指し示して下さっている。私たちは、主イエスの十字架の死の出来事を通して神の御業と御計らいの大きさ深さを知り悟る術を与えられた。その恵みに応え、主日の礼拝を喜びと感謝と賛美で献げ、主イエスの出来事を述べ伝えて行きたい。