7月9日 「ともし火と秤」 イザヤ書44章6-8節、マルコによる福音書4章21-25節
秋葉恭子牧師
イザヤ書44章
6 イスラエルの王である主
イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。
わたしは初めてであり、終わりである。
わたしをおいて神はない。
7
だれか、わたしに並ぶ者がいるなら
声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ、
わたしがとこしえの民としるしを定めた日から
来るべきことにいたるまでを告げてみよ。
8
恐れるな、おびえるな。
既にわたしはあなたに聞かせ
告げてきたではないか。
あなたたちはわたしの証人ではないか。
わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。
わたしはそれを知らない。
マルコによる福音書4章
21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためだろうか。職台の上に置くためではないか。
22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取上げられる。」
「ともし火を持って来るのは、燭台の上に置くためではないか。」よく知られた主イエスのたとえである。ともし火とは暗闇を照らす光であるが、主イエスの神の国の福音は、暗闇の中に永久に閉ざされたと思われるこの世界を照らす光であり、地の果てまで宣べ伝えられなければならない、と主は言われる。何故ならば、神の国は確実に近づいているからである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。
私達は神の国の福音について、礼拝を通じて、聖書を通じて聞かされ、告げられている。また、主の十字架と復活、罪の赦しと永遠の命、主の再臨への希望の信仰を告白している。その意味で教会は神の国についての知識を持っているが、そうであれば私達は、神の国は必ずこの世界に到来するとの堅い信頼と希望を持ち、「あなたたちはわたしの証人ではないか」との神の励ましに応え、大胆に福音を宣べ伝えなければならない。
「聞く耳のある者は聞きなさい。何を聞いているかに注意しなさい。」私達は主の福音を注意深く聞き、理解しなければならない。私達は今、主の肉声を聞くことはできないが、聖書を通して主の福音を聞くことができる。聖書に親しみ、聖書に語られている福音を注意深く探求することで私達は自己中心的な狭い視野を克服することができ、神の国に一歩近づく。私達の持っている秤、私たちの判断基準では隣人を愛することは不可能である。私達が福音を求めれば求めるほど、それ以上に豊かな恵みが与えられる。「持っていない人は持っているものまでも取上げられる。」聖書に聞くことを求めない人は、やがて持っている信仰まで失うことがある、とマルコは警告している。