7月16日 「成長する種」 イザヤ書61章1-4節、マルコによる福音書4章26-34節
イザヤ書61章
1
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
2
主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
嘆いている人々を慰め
3
シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に変えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。
4
彼らはとこしえの廃墟を建て直し
古い荒廃の跡を興す。
廃墟の町々、代々の荒廃の跡を新しくする。
マルコによる福音書4章
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、
27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
32 蒔くと、生長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
主イエスの譬は、知らず知らずのうちに成長する種について語る。それは、サーバントリーダーシップという実りとなる。イエス・キリストは種まきについて二つの譬えを語っておられる。一つは土壌の力であり、もう一つは種の持つ力である。私たちは自分を気にしているが、私たちの信仰を養うのは神の愛の支配という土壌である。
痩せ細った人間の土壌ではなく、神の国の豊かな土壌である。神の愛の支配がない人間の土壌では満たされることがない。人間の痩せた土壌では、ストレスから来る買い物依存症などの不満の症状が現れる。しかし、神の愛の支配に生きる共同体の中では、渇いた心が満たされる。ある壮年層の証の経験もそうである。
譬に出てくる、茎とは、悔い改めをもって新しい土壌に自分を置くことであり、信仰を進める訓練をとおして穂がなり、サーバントリーダーシップという豊かな実りが与えられる。主イエス・キリストに従って心から仕え生きることである。
聖書に譬えられているカラシ種とは、価値のないものとして疎まれた十字架の出来事が、よみがえりの力により、実は新しい歴史を創り、希望を与え、教会を誕生させたことを表している。小さなからし種が他の人を宿らせる大きな木になる約束を信じ、希望に生きたいものである。