64日 「人生の根本的態度」 マルコによる福音書31-6

                東方敬信牧師

   

1   イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。

2   人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

3   イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

4   そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

5   そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

6 ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

 

本日の聖書の箇所で、主イエスは安息日にもかかわらず片手の萎えた人を癒し、安息日の本当の精神=人間を不自由から解放することを実行した。それに対し、神の意思である律法を人間の比較の道具として使っていたファリサイ派の人々は、イエスを妬み、比較の世界から抜け出すことができずに不自由なままであった。私達も、大切にしなければならないものが何もないことが自由であると時々誤解してしまうことがあるが、何を優先すべきか知ることにより他に思い煩うことがなくなって自由となるのである。そして主イエスは「神を愛し、隣人を自分のように愛し、その愛に生きること」が最も大切であると教えられている。

イエス・キリストは、神から離れられて地上に降ってこられ、神の愛の対象として私達をかけがえのないものとし、御自分の命を十字架に捧げられた。この主イエスの愛に接する時、私達は心を尽くし、精神を尽くして、神を礼拝することが許されるのである。

主イエスの愛は、私達自身の不甲斐なさ、足りなさにもかかわらず、私達を受け入れてくださる。このキリストの存在に感謝して、主に従い、心を高く揚げ、神を賛美して生きることが必要である。

聖書の外典では、医療従事者は神の栄光をあらわす者とされている。礼拝の脈絡におかれる医療とは、どのような技であっても、神の愛によって心が解放されて、神の愛によって心が高く揚げられて、豊かに用いられる。神の道具となるのである。

 

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