6月25日 「聖霊と悪霊」 イザヤ書49章 24節〜25節、
マルコによる福音書3章20節〜35節
イザヤ書49章
24
勇士から取り返せるであろうか。
暴君から捕らわれ人を救い出せるであろうか。
25 主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。
マルコによる福音書3章
20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まってきて、一同は食事をする暇もないほどであった。
21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
22 エルサレムから下ってきた律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭で力で悪霊を追い出している」と言っていた。
23 そこで、イエスか彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
29 しかし、聖書を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負う。」
30 イエスがこう言われたのは、「かれは汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。
31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。
32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹方が外であなたを捜しておられます」と知らされると、
33 いえすは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、
34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
35
神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」
本日の箇所は「主イエスは聖霊の力によって悪霊をしばりあげる神の子である」という福音を伝えるものである。この福音を、強い人(悪霊)を縛り上げなければ、家財道具(悪霊にとりつかれている人)を解放できない、というたとえをもってマルコは語っている。マルコのたとえは、神の力は悪霊よりはるかに勝る最強のものであり、救いを告げしらせると語っているイザヤ書を背景としている。
また、この福音を受け入れた者、受け入れなかった者を示すために、主イエスをとりまく群衆と身内・律法学者が対照的に描かれている。通常なら家族を支える大黒柱になるはずが、また、ユダヤ教のラビに指導をうけずに、ヨハネからの受洗後、巡回説教者となったイエスを、身内は「気が狂った」と思い、律法学者はイエスの聖霊の力による奇蹟を受け入れなかった。一方、群衆はイエスの奇蹟をありのまま受け止め、イエスを求めた。主イエスは、身内の無理解に孤独を感じ、律法学者と戦いながら、「神の御心を行う人は誰でも私の兄弟・姉妹・母である」と神の国からの強いメッセージを伝えている。神への服従によって神の家族が形成される。
イエス・キリストは私の救い主である、と告白することができるのは聖霊が働くからである。私たちへの最大の恵みは聖霊である。ゆえに、「イエスは汚れた霊につかれている」と言う者、すなわち聖霊を冒涜するものは救いに与かるはずもない。信仰がゆらぎやすく、悪霊にとらわれやすい私たちには聖霊の注ぎを真剣に求める祈りが欠かせない。