6月11日 「大群衆と使徒たち」 イザヤ書61章1節、
マルコによる福音書3章7−19節
秋葉恭子牧師
イザヤ書61章
1
主はわたしに油を注ぎ
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
うち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
マルコによる福音書3章
7
イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
8
エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、テイルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
9
そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
10
イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
11
汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
12
イエス・キリストは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
13
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロと言う名を付けられた。
17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
18 アンデレ、フィリポ。バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。
私たちは何者であるかと問われる時、洗礼を受けた者であると明確な答えを持っている。私たちは洗礼によって罪を赦され、義である者と見做され聖霊を受け、聖餐の恵みによって聖霊の注ぎを受け続け、やがて義と認められる者へと変えられていくプロセスを歩んでいる。今日の聖書の箇所で何故主イエスが十二使徒を任命されたかが述べられているが、私たちも主イエスの御心のままに恵みにより使徒に任命された者であると言えよう。十二使徒の任命は新しいイスラエル、即ち、新しい神の共同体としての教会の象徴であり、キリストの体たる教会の形成を指し示している。
私たちキリスト者は、公の礼拝を守り神の言葉を正しく聞くために、神の言葉、即ち主イエスの福音を正しく宣べ伝えるために、そして、洗礼と聖餐によって清められ主イエスから聖霊の知恵と力を与えられて悪霊と戦うために使徒に任命されたのである。
主が選ばれた十二使徒は漁師、ローマの手先の徴税人、反ローマの闘士、ギリシャ人など様々な人間であり、主を裏切り、或いは見捨てた人たちであった。しかし復活の主から赦しを受けて、彼らは主イエスの罪の赦しを土台として「神を愛し隣人を愛せよ」との主の命ずるままに、様々な試練を耐えつつ使徒として整えられ成長し、主イエスの福音の証し人となり教会を形成した。
私たちも洗礼と聖餐の恵みを受けている者として、その恵みに応え、主イエスによる罪の赦しを土台として、互いの罪を赦し合い、互いに受け入れ、一人一人異なる神の賜物が用いられて主の福音の伝道へと出て行きたいと思う。それが私たちの教会の求められている姿ではないだろうか。