5月21日 「新しいぶどう酒」  イザヤ書586節〜10

マルコによる福音書218-22

東方敬信牧師

イザヤ書58

6 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。

 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて

 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

7   更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え

 さまよう貧しい人を家に招き入れ

 裸の人に会えば衣を着せかけ

 同胞に助けを惜しまないこと。

8   そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で

 あなたの傷は速やかにいやされる。

 あなたの正義があなたを先導し

 主の栄光があなたのしんがりを守る。

9   あなたが呼べば主は答え

 あなたが叫べば

 「わたしはここにいる」と言われる。

 軛を負わすこと、指をさすこと

 呪いの言葉をはくことを

 あなたの中から取り去るなら

10      植えている人に心を配り

苦しめられている人の願いを満たすなら

あなたの光は、闇の中に輝き出で

あなたを包む闇は、真昼のようになる。 

 

マルコによる福音書2

18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところにきて言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。

20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。

21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない。そんなことをすれば,新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。

22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば,ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 

 今日の説教題はイエスご自身が花婿であり、喜びの源であるとの譬えである。マルコによる福音書はイエスが旅を続けながら弟子達を教えておられる。信仰の訓練の物語とも言われる。私たちも人生の旅を続けながら一歩一歩信仰の訓練を受けているのである。人生の旅には困難が伴う、これは厳しさの象徴でもある。ジョン・バンヤンの天路暦程では巡礼の旅をとおして正しく生きる人も困難に出会うと記している。人生の旅路に迷うときにこそ生きるための知恵を得ることができる。主イエスは23章でキリスト者は問われてこそ、人生の知恵を得ることが出来ると教えられる。

 さて、主イエスはご自身を新しいぶどう酒と譬えられている。主イエスは私たちを招き新しい喜びの経験を与えて下さるのである。イエスがともにいてくださる喜びを私たちは一生涯味わうことが出来る。新しいぶどう酒は途方もない力に満ちたものなのである。今朝のイザヤ書の箇所では本当の断食、神様に用いられて他の人のために愛の業をなすことが示されている。イザヤ6110では主が法外な喜びを私たちに与えてくださることが記されている。主イエスは私たちのために愛を注いで花婿として共にいてくださる。大きな慰めである。人生の唯一の理解者として主イエス・キリストに向き合うとき喜びの経験を与えられ、霊的な生命を与えられる。主イエスの新しい革袋とはどのようなものであろうか。マルコ113節にある主イエスの言葉を考えたい。『主がお入用なのです』。これが新しい革袋を用意するということでなのである。

 

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