4月30日 「広まるイエスの評判」 レビ記14章1-20節、
マルコによる福音書1章35-45節
秋葉恭子牧師
レビ記14章
1
主はモーセに仰せになった。
2
以下は重い皮膚病を患った人が清めを受ける時の指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、
3
祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、
4
祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。
5
a次に、祭司は新鮮な水を満たした土器の上で鳥の一羽を殺すように命じる。
6 それから、杉の枝、緋糸、ヒソプおよび生きているもう一羽の鳥を取り、先に新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、
7
清めの儀式を受ける者に七度振りかけて清める。その後、この生きている鳥は野に放つ。
8
清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることが出来る。しかし、七日間は自分の天幕の外にいなければならない。
9
彼は七日目に体の毛を全部、即ち、頭髪、ひげ、まゆ毛、その他の毛もすべてそる。そして、衣服を水洗いし、身を洗う。こうして、彼は清くなる。
10
八日目に、彼は無傷の雄羊二匹、無傷の一歳の雌羊一匹、オリーブ油を混ぜた十分の三エファの上等の小麦粉の献げ物、一ログのオリーブ油を調える。
11
清めの儀式を執行する祭司は、その儀式に預かる者にこれらの献げ物を持たせ、臨在の幕屋の入り口の主イエスのみ前に立たせる。
12
祭司は雄羊の一匹を取り、それを一ログのオリーブ油と共に、賠償の献げ物としてささげ、主の御前に奉納物とする。
13
次に、この雄羊を贖罪の献げ物や焼き尽くす献げ物を屠る場所、つまり聖域で屠る。この賠償の献げ物は、贖罪の献げ物と同様、祭司のものである。これは神聖なものである。
14 祭司はこの献げ物の雄羊の血を取って、清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗る。
15 祭司は、一ログのオリーブ油の一部を取って自分の左の手のひらに注ぎ、
16 そこに右手の指を浸してその油を七度主の御前に振りまく。
17 次に、手のひらに残ったオリーブ油の一部を、清めの儀式を受ける者の右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗り、更に賠償の献げ物の血の上にも塗る。
18 再び手のひらに残ったオリーブ油は清めの儀式を受ける者の頭に塗る。祭司八個のようにして、彼のために主の御前に贖いの儀式を行う。
19 祭司は、贖罪の献げ物をささげて、彼のために汚れを清める儀式を行う。最後に焼き尽くす献げ物を屠る。
20
祭司は焼き尽くす献げ物と穀物の献げ物を祭壇で燃やしてささげる。祭司がこうして、彼のために贖いの儀式を行うと、彼は清くなる。
マルコによる福音書1章
35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37 見つけると、「みんなが探しています」と言った。
38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。
40 さて、らい病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
42 たちまちらい病は去り、その人は清くなった。
43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
主イエスはとりわけ病を患っている人々に限りない愛と恵みの手を差し伸べ癒された。こうしてイエスの周りには大勢の人が集まり評判は高まるばかりであったが、それは決して主イエスの思いではなかった。人里離れた所で神の御心に耳を傾けるために祈られていたイエスのところに、「みんなが捜しています」とシモンとその仲間が追ってきた時、イエスは「他の村や町に行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」と言われカファルナウムから出て行かれた。主イエスはご自身のこの世での使命が、私たちを神と和解させ新たな命に与らしめるため十字架の死と復活の道を歩まれること、この救いの福音をすべての人々に伝えることであることを知っておられた。一方、弟子たちは高まるイエスの評判に自分たちもあやかろうと思っていた。
さて、重い皮膚病を患っている人が、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」とイエスの前にひざまずいて願った。私たちは祈りの中で「御心ならば」と祈るが本当に限りない神への信頼と、すべてを神の御心にゆだねるいそぎよさを持って祈っているだろうか?重い皮膚病の患者のこの大胆な行動は、主イエスが自分を清くすることが出来る、その力を持っているお方だとのゆるぎない信頼に基づいた信仰の告白であり、主イエスはこの信頼に応えて「よろしい。清くなれ」と言われて癒された。
「主イエスの御名によって祈る」とは、祈りが確かに聞き届けられると言う主イエスによる保証であり、祈る者の確信でもある。主イエスの十字架の贖いの恵みに感謝し、喧騒の日常の中、大胆に神に近づき向い合ってみ言葉に真剣に耳を傾ける時を守りたい。