3月19日 『神の民として生き続ける』 

フィリピの信徒への手紙 312節〜41

 

12  わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

13  兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

21      キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

4

1   だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主イエスによってしっかりと立ちなさい。

 

 「わたしたちの本国は天にある」このみ言葉が日々の歩みへの力となっているか。このことが喜びの源であることをみ言葉より受けたい。私達は「喜び」の中に歩む時、いつのまにか力を受け、変えられていく歩みをなす。フィリピ書は喜びの書簡といわれるが、もう一つの呼び名は獄中書簡といわれ、喜びなど見出せない場所で記された。真の喜び、その不思議さ力強さを見出せる。3章の冒頭で「主において喜びなさい」とあるのは、12節からパウロ自身も示すように完全なものでなく、欠けがあっても新たな命を見出し前進し続ける歩みである。ヘブライ11章にも「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」とある。キリスト・イエスに捉えられている命を心からまず信じ、キリストを土台として前進することである。フィリピ書の13節には「なすべきことはただひとつ」とパウロは記す。

神がまず私の者と誇ってくださるのである。私達は一人では生きられない存在である。私達に手を置き続けている方がいることを忘れてはならない。神無しの人間の力だけでは決してイエスに出会うことはできない。イエスが捉えて下さるからこそ、主の姿を見出し確信し本当の命の歩み、私達の本国は天にありと歩め、そこに帰ることを神が約束してくださるのである。キリスト者は信仰の戦いの中にいる。神の与えられるものそれは神の民の教会、共同体である。教会は万物を支配される方によって召し集められた共同体である。私の喜びであり、冠である愛する人たちと。私達の本国は天にあることを感謝し、喜びも悲しみも共にあることを分かち合いつつ前進することが赦されている。愛のみ手が満ちていることを信じて歩み続けること、それはみ国に帰る日まで赦されている神の民としての姿である。神が用意してくださった喜びに向かって新たに歩み出したい。

 

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