2月5日 「このいのちにも輝く」 コリントの信徒への手紙T 1535-49 

 

35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。

36 愚かに人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。

37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。

38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

39 どの肉にも同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。

40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。

41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。

42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、

43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いもに復活するのです。

44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命があるのですから、霊の体もあるわけです。

45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。

46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。

47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。

48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。

49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

 

イエス・キリストの十字架と復活、それによって罪が赦され神との和解を与えられ、慰めをえてキリストのみ跡を歩むことが許される、これが福音の中心であり、この福音を告白し、その喜びを宣べ伝えるのが教会であり、キリスト者の群である。我々は礼拝の都度、信仰告白によって、このことを確認している。しかし、信仰告白の最後にある身体のよみがえり、復活の体、をどのように理解しているであろうか。この点について、パウロがコリントの信徒に対して確信を持って正しているのが今朝の聖書の箇所である。我々もコリントの信徒のように疑い、迷い抱いていないだろうか。

パウロは蒔かれた種の喩えで復活の体を説明している。種は死ななければ新たな命を生みださない。我々の体も一緒であると。即ち、死をとおして新たな命を生み出す。38節「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。」と。一人一人に新たな体が与えられると神が約束される。この世で、種のように蒔かれて我が身に命を与えて下さった神が、自然の体が蒔かれて朽ち果てるとき、霊の体に復活させてくださる。なぜこのことを信じるか。それは主イエス・キリストが復活と言う事実を通して示してくださり、キリスト者は主イエス・キリストを信じ、主の復活の体に似た命の輝きの中に歩むことを許されているからである。我が身も魂も、生きている時も死ぬ時も、主イエス・キリストの命のものになっている。

主イエス・キリストの似姿を持つ我々は、復活の命の喜びを持ちつつ、主がこの世で歩まれたように、地上での歩みの中で主イエス・キリストの輝きを表しつつ主に忠実な歩みを進めたい。

 

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