2月12日 「イエス・キリストによって」 コリントの信徒への手紙T 1550-58節 

50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。

51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。

52 最後のラッパがなるとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

54      この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利に飲み込まれた。

55      死よ、お前の勝利はどこになるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜わる神に、感謝しよう。

58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 

今朝の箇所はコリント書の内容的結論の部分だと言わる。15章は復活について語られている。教会を立てるために書かれた手紙であるコリント書の結論がこの復活であるということがわかる。私達人間の最大の敵は死である。これに対して聖書にはイエス・キリストの復活が記され、また教会はそれを信じる群れである。しかしこの賜物である復活を受けながらも喜ぶことが出来ないことがないだろうか。パウロは今日の箇所で「兄弟たち、私はこう言いたいのです。」と記す。この「言いたい」という言葉は確信しているという意味を持っている。パウロは手紙の最後にこれまでの伝道の歩みの源である確信を神の家族である教会に伝える。それは主の復活と私達の復活が一つであるということである。それは自身が復活を信じることなしに教会は主の復活だけを信じることは出来ないということである。このことこそ私達が唯一断言できる真実である。私達はこの復活を現実のものとし、その信仰に立って生きなければならないとパウロはここで言うのである。

 主イエスの歩みは福音書によって知ることが出来るが、それは神の国の到来であったといえる。私達はこの神の国を先にある天国のようなものと勘違いしてないだろうか。パウロはここで神秘・奥義を語ると言う。神の国を受け継ぐには今と違う姿、復活の姿に変えられなくてはならないと言うのである。そして、このことは終末のときにだけ起こることではなく、復活の主に出会ったときに生きながらにしてその復活の命に与り、この世に対しての主の勝利に与ることができると語るのである。それこそ神の国を継ぐということである。そして、このことはただ信仰によるということがパウロの確信であった。今、私たちは既にこの復活の主に結ばれている者として、共に主の業に励み生活し歩む者でありたい。

 

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