12月3日 「おめでとう、恵まれた方」 イザヤ書11章1−5節、
ルカによる福音書1章26−38節
東方敬信牧師
イザヤ書11章
1
エッサイの株から一つの目が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
2
その上に主の霊がとどまる。
知恵と識別の霊
思慮と勇気の霊
主を知り、畏れ敬う霊。
3
彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。
目に見えるところによって裁きを行わず
耳にするところによって弁護することはない。
4
弱い人のために正当な裁きを行い
この地の貧しい人を公平に弁護する。
その口の鞭をもって地を打ち
唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。
5
正義をその腰の帯とし
真実をその身に帯びる。
ルカによる福音書1章
26 六ヶ月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。
27 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。
28 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
29 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。
30 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。
31 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
32 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。
33 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
34 マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
35 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。
36 あなたの親類のエリザベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。
37 神にできないことは何一つない。
38 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。
本日の聖書の箇所『受胎告知』は、聖書の名場面であり、数々の美しい名画にも描かれているが、マリアを美しい理想の女性像ではなく、隣の農家に住む素朴で無骨な女性像として描いている絵画も数多く存在する。それでも私達は神様の言葉に出会ったマリアを美しいと感じる。プロテスタントは、マリアを神格化せず信仰者のモデルとして考えているが、マリアを讃えるのではなく、思いがけなく神の言葉に出会い、豊かな恵みの出来事が始まったことを喜び感謝する。
「おめでとう」は、原語では「喜びなさい」と命令形で語られているが、私達はこれを奇妙と感じる。何故ならば、喜びは内側から自ずと湧いてくるものだからである。しかし「主があなたと共におられる」という内なる泉は備えられ、神様が共にいてくださる歴史が始まったのである。
内なる泉は、聖なる神のスピリット(聖霊)である。主イエスは、内から湧いてくる自由な決断により、大胆に十字架の道に進まれた。神の意志を内側から喜んで受け入れ、御自身を捧げられるために特別に生まれた方である。
人間も神のスピリットにより絶望の淵から立ち上がることができる。(エゼキエル書37章)私達も、「Give me」(お願い)ではなく「Send me」(私をお遣わしください)の祈りにより、マリアのように信仰によって内側の霊が力づけられ、大きく豊かにされ、「お言葉どおり、この身に成りますように。」と神様に遣わされる歩みをしたい。