12月17日 「救いの角笛」 イザヤ書27章12-13節、

ルカによる福音書1章57-79節

東方敬信牧師  

 

イザヤ書27章

12  その日が来ると

  ユーフラテスの流れからエジプトの大河まで

  主は穂を打つように打たれる。

  しかし、イスラエルの人々よ

  あなたたちは、ひとりひとり拾い集められる。

13  その日が来ると、大きな角笛が吹き鳴らされ

  アッシリアの地に失われて行った者も

  エジプトの地に追いやられた者も来て

  聖なる山、エルサレムで主にひれ伏す。

 

ルカによる福音書1章

57 さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。

58 近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。

59 八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。

60 ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。

61 しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、

62 父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。

63 父親は字を書く板を出させて、「子のこの名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。

64 すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。

65 近所の人々は皆恐れを感じた。そして、こことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。

66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

67 父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。

68 『ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。

  主なその民を訪れて解放し、

69 我らのために救いの角を、

  僕ダビデの家から起こされた。

70 昔から聖なる預言者たちの口を通して

    語られたとおりに。

71 それは、我らの敵、

  すべて我らを憎む者の手からの救い。

72 主は我らの先祖を憐れみ、

  その聖なる契約を覚えていてくださる。

73 これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。

  こうして我らは、

74 敵の手から救われ、

  恐れなく主に仕える、

75 生涯、主の御前に清く正しく。

76 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。

  主に先立って行き、その道を整え、

77 主の民に罪の赦しによる救いを

    知らせるからである。

78 これは我らの神の憐れみの心による。

  この憐れみによって、

    高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、

79 暗闇と死の影に座している者たちを照らし、

  我らの歩を平和の道に導く。」

 

今年のクリスマスのイルミネーションはブルーが多く、落ち着いた印象を与える。しかし、近代社会では19世紀の終わりにニーチェは「神は死んだ」と宣言したはずで、人間の能力、科学万能の社会、競争に打ち勝つ人間中心の価値基準となった。

 ルカによる福音書は、クリスマスの出来事を諦めと不信からスタートし、口のきけない人物を描いている。ザカリアは神の働きかけを信じられずにいた。この沈黙が破られる時はバブテスマのヨハネの命名の時である。ヨハネは、神は恵み深いという意味である。そう伝えたとたん彼は語れるようになった。諦めと不信の人から神を賛美する人に変えられた。人類が敵意、怨念、争いから方向転換をするためには、神の恵みの力によるほかない。教会が告白している使徒信条では「乙女マリアより生まれ」のすぐあとに「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と続く。イエス・キリストは十字架につくために生まれたのである。十字架上の祈りにおいて平和の土台となられた。これが罪びとに対する神の赦し、和解である。

イエス・キリストに現れた愛は普遍的な愛、民族を超えた愛である。羊飼や、博士達がキリストを礼拝したように私たちも、主を求めて跪き、キリストに仕えることを喜んで生き生きと歩んで生きたい。

 

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