11月5日 「本当の勝利とは何か」 詩編2章1-12節、
マルコによる福音書9章2‐13節
東方敬信牧師
詩編2章
1
なにゆえ、国々は騒ぎ立ち
人々はむなしく声をあげるのか。
2
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して
主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか
3
「我らは、枷をはずし
縄を切って投げ捨てよう」と。
4
天を王座とする方は笑い
主は彼らを嘲り
5
憤って、恐怖に落とし
怒って、彼らに宣言される。
6 「聖なる山シオンで
わたしは自ら、王を即位させた。」
7
主の定められたところに従ってわたしは述べよう。
主はわたしに告げられた。
「お前はわたしの子
今日、わたしはお前を生んだ。
8
求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし
地の果てまで、お前の領土とする。
9
お前は鉄の杖で彼らを打ち
陶工が器を砕くように砕く。
10
すべての王よ、今や目覚めよ。
地を治める者よ、諭を受けよ。
11
畏れ敬って、主に仕え
おののきつつ、喜び踊れ。
12
子に口づけせよ
主の怒りを招き、道を失うことのないように。
主の怒りはまたたくまに燃え上がる。
いかに幸いなことか
主を避けどころとする人はすべて。
マルコによる福音書9章
2
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
3
服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
4
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。
5
ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため,一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」
6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。
7
すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」
8
弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
9
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。
10
彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
11
そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。
12
イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら,人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。
13
しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」
高い山に登ることは、神との出会いを経験することであり、聖書に何回も記されている。これは人間の損得勘定やお互いの批判の世界から抜け出して聖なる恵みに与る超越の経験であり、本日永眠者記念礼拝で覚えている信仰の先達はこのような経験をされたはずである。礼拝に来ることは山に登ることである。
本日の聖書の物語で、モーセ・エリヤ・主イエスの3人は、栄光には包まれているが十字架の苦難による救いについて語り合っていたと解釈されている。新しい平和の共同体の到来、人々の方向転換の必要性、救い主イエス・キリストが御自身傷つけられ苦悩を負って十字架につく必要性が語られていた。
ヨハネによる福音書では、十字架の意味を鮮明に主イエスが示された洗足の記事が描かれている。御自分が低くなって弟子達の最も汚い足を洗う、仕える愛を示して弟子達の罪を洗い清められる。これが十字架による救いの意味である。その後、身も心も傷付けられた救い主イエスが私達の最も根源的な問題である罪と闘ってくださったことが、私達人間の足を洗ってくださったということの解釈の鍵である。
弟子達には良く理解できていなかったが、イエス・キリストは、神の栄光に包まれた十字架と復活の道、救いの出来事に向かって確実に歩まれていた。イエス・キリストは深い所で私達の足を洗い、十字架につかれた。深い悔い改めと赦しの愛を経験して、また希望をもつ、その日々を私達は歩んで行きたい。