11月26日 「つまずかせる者」 エゼキエル書7章19−21節、
マルコによる福音書9章38−50節
エゼキエル書7章
19 彼らは銀を外に投げ捨て
金は汚れたものとなる。
主の怒りの日には、銀も金も
彼らを救うことができないからだ。
銀も金も、彼らの飢えを鎮めることができず
腹を満たすこともできない。
かえって、それは彼らをつまずかせ罪を犯させた。
20 彼らは美しい飾りを驕り高ぶるために用い
憎むべき忌まわしい偶像を造った。
それゆえ,わたしはそれを汚れたものとし
21 戦利品として、他国人の手に渡し
分捕物として、地上の悪人たちに与える。
彼らはそれを汚す。
マルコによる福音書9章
38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので,やめさせようとしました。」
39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの見方なのである。
41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、かならずその報いを受ける。」
42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
43 もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命に与る方がよい。
44
45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命に与る方がよい。
46
47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。
48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。
49 人は皆、火で塩味を付けられる。
50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして,互いに平和に過ごしなさい。」
本日のマルコにおけるヨハネの言葉「私達に従わないので」は、主イエスの御心からは遠く離れ、根底に「誰が一番偉いのか」という思いが表れている。また、主イエスの苦難の歩みに従う覚悟を持たず、主から授けられた悪霊を追い出す権能を自分たちのものだけにしようとするヨハネは、自分を棚に上げ人を裁く罪人の姿と、弟子である特権意識からくる心の狭さを表している。しかし、主イエスは、数々の奇蹟を行い、悪霊を追い出す権能を自らお持ちであったにもかかわらず、それをご自身の特権とは思われず、十字架の上で敵の罪をも許すことを天の父に祈られたほど、懐の深い、憐みに満ち溢れた方である。この主を信じることで私達も主の深い懐に抱かれ罪から自由になることができる。
さらに、父なる神、御子なる主イエスは、愛の方であり、また罪を見逃さない義の方でもある。エゼキエル書の中に旧約の裁き、主の怒りの火が示されている。キリストの弟子であるかどうかが大切なのではなく、主の御心を行うことが一番大切で、その者達に一杯の水をふるまうような小さな事も神は忘れられない。神を畏れない自分のための行為には天の報いはのぞめない。生ける者と死ねる者を裁かれる強烈な記載は、手足に象徴される日常的な誘惑が、人を罪に陥れ、永遠の滅びのみが待っている「つまずかせる者」としてしまうことを示す。教会の中も例外ではない。キリスト者は自分に厳しく、周りに寛容な者でありたい。信仰は試練で証明される。火(試練)で味付けられた塩となり、聖霊の注ぎを祈り求めつつ主イエスの御心を行うものとさせて頂きましょう。