11月12日 「祈りによらなければ」 イザヤ書591-2節、

マルコによる福音書914-29節  

秋葉恭子牧師

イザヤ書59

1   主の手が短くて救えないのではない。

  主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。

2   むしろお前たちの悪が

  神とお前たちとの間を隔て

  お前たちの罪が神の見顔を隠させ

  お前たちの耳を傾けられるのを妨げているのだ。

 

マルコによる福音書9

14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者達と議論していた。

15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。

16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、

17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。

18 霊がこの子に取り付くと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると,この子は口から泡を出し、歯ぎしりいて体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。

19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。

21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。

22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」

23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でも出来る。」

24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」

25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」

26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。

27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。

28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。

29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 

イエスが山を降りて来られると、他の弟子達は群衆に取り囲まれて大騒ぎになっていた。弟子達が、幼い時から悪霊に取りつかれた子どもから霊を追い出すことができず、そのことで、子どもや父親をそっちのけで律法学者達と議論していたのである。

状況をお聞きになったイエスは、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれ、父親に息子を連れて来させると、息子に取りついた霊がイエスを見て息子を激しく引きつけさせた。父親が、「おできになるなら、」と半ば不信の気持ちでイエスに助けを願うと、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」とイエスは戒められた。父親は、「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫んだ。イエスが霊を大声で叱りつけると、霊は出て行き子供の病気は癒された。

「なんと信仰のない時代なのか」とイエスが嘆かれたのは、病気の子どもをそっちのけで互いに相手を非難し、自分を正当化しようとする、即ち、神を愛し隣人を愛する信仰から遠く離れている人間の姿である。私達もまた、自分自身を省みるとき、自分もそのような者であると認めざるをえない。しかしイエスは「信じる者には何でもできる。」と私たちを励ましてくださる。

主イエスの十字架と復活は、「信じます、信仰のないわたしをお助けください」という祈りに応えるもの、即ち、「この種のもの」とは人間の根源的な罪と悪であり、「祈りによらなければ」とは主イエスの十字架による罪の贖いである。人間が根源的な罪と悪から解放され神と向合うために、栄光の御子イエスは身も心も傷つけられた姿で十字架にかかられ人間の罪を贖われた。マルコはその福音書を通しこのことを明らかにしようとしたのである。

 

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