10月22日 「生ける命のパンと二つのパン種」 イザヤ書5714-15節、

マルコによる福音書811-26節  

秋葉恭子牧師

 

イザヤ書57

14 主は言われる。

  盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。

  わたしの民の道からつまづきとなる物を除け。

15 高く、あがめられて、永遠にいまし

  その名を聖と唱えられる方がこう言われる。

  わたしは、高く、聖なる所に住み

  打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり

  へりくだる霊の人に命を得させ

  打ち砕かれた心の人に命を得させる。

 

マルコによる福音書8

11  ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。

12  イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」

13  そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、船の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。

16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。

17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。

18 目があっても見えないか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。

19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。

20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、

21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスの所に連れて来て、触れていただきたいと願った。

23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上において、「何が見えるか」とお尋ねになった。

24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」

25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。

26 イエスは、「この村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

 

先のマルコの福音書で、イエスが5つのパンと2匹の魚を5000人もの人が満腹するほど増やされた事実が語られた。神の救いが魂の救いのみでなく、日々の肉の糧も与えて下さることを示している。主の祈りの中にも「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」とある。イエスが数々の奇蹟を行ったのは、自分が神の子であるしるしを示すためではなく、病の人・生きる希望を失った人を見過ごせず、深い憐れみから苦しむ人々を救うためであった。奇蹟の行いを口止めされたことは、癒された人が主イエスと真剣に向き合う大切さを示すものである、と捉えることもできる。

不信仰ゆえに憐れみを理解できないファリサイ派はイエスに神の子のしるしを求めるが、イエスは「今の時代の者にしるしは与えられない」と語られる。そして傲慢偽善のファリサイ派・悪意と邪悪のヘロデ派を悪いパン種に例え注意するように告げられる。またパンの奇蹟を覚えていない弟子達:どんな緊急事態にも対応できるイエスを信頼していない姿をお咎めになる。イザヤ書で、神は打ち砕かれた心・へりくだる霊の人を求めておられることが示されている。自分が価値判断基準の人達に神は姿を表さない。盲人を癒す福音は、不自由から解放された人の真の自由と、目が開いていても霊的に目が開かれていない人々との対比が示されている。主イエスこそ命のパン、私たちに永遠の命を与えてくださる方である。自分自身及び教会を生かす命のパンを、傲慢・偽善・悪意・邪悪のパン種で汚し、ふくらませないよう祈りたい。

 

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