10月15日 「聞くことの大切さ」 イザヤ書6章1-8節、
マルコによる福音書7章31-37節
東方敬信牧師
イザヤ書6章
1
ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。
2
上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔お覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。
3
彼らは互いに呼び交わし、唱えた。
「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は、地をすべて覆う。」
4
この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。
5
わたしは言った。
「災いだ。わたしは滅ぼされる。
わたしは汚れた唇の者。
しかも、わたしの目は
王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
6 するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んできた。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。
7
彼はわたしの口に火を触れさせて言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので
あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」
8
そのとき、わたしは主の御声を聞いた。
「誰を遣わすべきか。
誰が我々に代わって行くだろうか。」
わたしは言った。
「わたしがここにおります。
わたしを遣わしてください。」
マルコによる福音書7章
31 それからまた、イエスはテイルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
主イエスがティルスを去りシドン、デカポリス地方を遠周りをしてガリラヤ湖へ着かれたのは意味深いことである。異邦人の地を通っていかれたのは、先週のギリシャ人の女性との出会いに理由がある。主イエスはこの女性を通して異邦人と向きあうことに心を配られた。主イエスの柔軟なお心から真の神であり、まことの人であることが教えられる。今日の癒しの譬えは耳が聞こえず舌の回らない人への癒しの業である。その中で聞くことの大切さが語られている。キリストの言葉を信仰を持って聞くことにより、人が変えられていくことを示している。聞くことの大切さは、み言葉を聞く準備が出来、外からの語りかけを聞き、み言葉に養われ、成長させられることである。
この出来事はマルコ福音書にだけ示されている癒しの記事である。34節のイエスが天を仰いで深く息をつきとあるのは、主イエスのサタン的な力との戦いが示されている。この人を群衆から引き離されたこと、両耳に指を指し入れられたこと(33節)は主イエスが直にこの人と深くふれられたことを示している。また口止めをされたこと(36節)は、主イエス・キリストと真剣に向き合うことの大切さを示している。37節の「すべて素晴らしい」は、創世記の神の肯定を連想させる、人々の賛美の言葉である。
イエス・キリストに向き合って生きる、ここに本当の救いがある。イエス・キリストを賛美する輪に参加して生きていきたい。