1月8日  「永遠からの力を源として」コリントの信徒への手紙T 1520-34     

  

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

21 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。

22 つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

23 ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、

24 次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。

25 キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。

26 最後の敵として、死が滅ぼされます。

27 「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。

28 すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

29 そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。

30 また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。

31 兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。

32 単に人間的な動機からエフェソで野獣と戦ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。

33 思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。

34 正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしたがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

 

人は事実、自分の誕生も死の時も知らない存在である。それ故、想像を越えた絶望に歩む時人間は立ち止まり生きる事となりやすい。また自分でよるべき存在を作り出さなければならない故に苦しい。頼る神が必要な存在がありのままの人間である。

 「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人達の初穂となられました。」この事実は、人間にとって最も切実な死に関り、それを受ける時今を生きる自分の救いとなる。パウロは、創世記のアダムの姿を示し、死が訪れた事実を示す。しかし、今や全き人と歩まれたキリストの復活により、命が神によって創造され贖いを受けている事実を輝かせる。私達の範囲を越えて捉えられ、私達の一切が内側で決めるのではなく、神の前において堅く保証されている事実が示された。神が独り子の命をもってこの死と戦って下さり勝利された。全てにおいて全てになられた事の成就が主イエスの復活である。従って、この人の御跡を歩む時に我々も同じ姿が約束され平安に生かされる。

 
29節から死者の為の洗礼の姿が記される。しかし、それでは信仰は迷信になり、結局この世と先に眠りについた者との1つの道を断ち切る死の力に負けている姿である。キリストに生きる者は全てになられた神に委ね祈り、神の業を信じて待つのである。パウロも「私は日々死んでいます」と自身の姿を通して示す。例え死に直面し、日々死んでいるような生活になお喜んで生きることを可能にするもの、それこそキリストの蘇りを持つことだという。キリストの復活を身にまとい事実として起こることを確信した。我々にもそれは約束される。

 復活の約束を持って生きる人は、真の強さを持つ。全てにおいて全てとなられた神が生きておられる。その方に心から委ね歩む時必ず永遠からの力、私達の生きる源として歩む事が許される。共に復活の力を主よって与えられている幸いを輝かせて生きたい。

 

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