1月15日  「主に問われる幸い」 マルコによる福音書827-30 

                  兼子洋介神学生  

27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイザリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリアだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

29 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」

30 するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。

 

 福音書でも珍しい信仰告白の記事である。昔も今も、キリスト者が信仰を公に言い表すのには困難が伴った。世にしてみれば非常識なのが信仰である。私達信仰者は世の常識の壁と格闘する歩みを続けている。

 ペトロもまた、信仰を言い表す困難を抱えていた。十字架で死ぬメシアというのは考えられなかった。マルコは一貫して、このペトロの無理解とつまづきを描く。この幸いな信仰告白にしても、マタイとは異なりそっけない扱いである。

ここまでの奇跡のイエスに対する信仰告白であり、主イエスについての無理解に満ちたペトロの告白ではあるが、マルコはそれが十字架の受難の主イエスに導かれたものであるがゆえに幸いであることを告げる。心が鈍くなっていた、無理解のペトロのために十字架にかかられた主イエス。この方の問いのゆえに、ペトロは信仰を到底言い表せないであろう状況や信仰にありながらも言葉を与えられたのである。

ペトロのみならず私達の無理解のために十字架にかかられた主イエス。私達もまた、言い表せるような信仰がないままに も、御言葉を通して主に問われ、信仰を言い表すことができる。そういう先達の存在に支えられて、私達の今の礼拝があるのである。こうして私達は神の民となることを約束されているのである。

 

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